曖昧だから良い

前回の「二分法は良くない話」と少し関連して、今日は曖昧だから良いって事を芸術の観点から話したい。とは言っても、私自身は芸術家でも何でもないしむしろ絵のセンスはパンかすほどにもないから、あくまで私個人の考えだ。

私は芸術とくに文学などは、曖昧だから良いのだと思っている。ここで言う「曖昧」とは、「その受け手に意味を委ねる」ということだ。前回で言うグラデーションを持たせると言うところだが、何故これが良いのか。これを表す簡単な例がある。ここに一つの文がある。これを読んで見てほしい。

「私は驚いた。今までこれほどまでに美しい女性を見たことが無かったからだ。私は一目見て、恋に落ちてしまった。」

さて、あなたはこの文を読んでどのような女性をイメージしただろうか?髪はロングだろうか、それともショートだろうか。体系はスラッとしているのか、それともむっちりなのか。間違いなく言えることは、100人いれば100人が違った女性をイメージするということだ。なぜなら、それぞれが心に抱く美しさなるものはその文化や社会、状況などによって複合的に形成されるからだ。だがもしこれが、「長澤まさみをみた」というように、固定化されていたらどうだろうか。美しいと思う人もいれば、そう思わない人も中にはいるだろう。

芸術は受け手によって初めて完成されるというが、その通りだと思う。その意味で受け手もまた表現者なのだ。送り手の残した解釈の余地を、自分の中で再構成する。つまり、自分の文脈に落とし込むのだ。それによってその表現物は輝きを放ち、心を動かす作用を持つのではないか。もちろん、だからといっていつも曖昧な言葉を使えば良いという訳ではない。ある程度の文脈は規定した上で、受け手に委ねる部分は思い切って委ねる。するとその表現は、異なる価値観を超えて感動を与えられる。だから、多くの人の心を動かしたいと思ったら、曖昧さを残すのが良いと思う。というか、曖昧だから良いんだ!曖昧だから良い。おわり。

上手く言葉に落とし込めてなくてすみません。ただ何となく分かる、と思ってもらえれば十分です。ご自身の文脈においてご理解下さい。それでは、今回もご精読頂き有難うございました。

#エッセイ #教育 #曖昧さ #グラデーション #文脈 #芸術とは




いいなと思ったら応援しよう!