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てんぐの天龍八部再読日記②:民族と英雄の悲劇果てしなく

前説

3巻4巻の表紙。本当に大激流だし行先は茫々だったよ

 先週から再読してる天龍八部ですが、今日は4巻まで到達しました。
 1巻と2巻の時点でも思いましたが、2020年版のドラマって本当に原作に対する再現度が高いのがよくわかります。というか、「あの展開って、このレベルで原作準拠だったのか」と逆に驚くくらいでした。
 そんな天龍八部再読感想の第二弾、今回は丐幇不世出の英雄にして第二の主人公たる喬峯=蕭峯の運命の大激流を中心にまとめていきます。

 1巻2巻は段誉が主人公だったから3巻に入ってからは喬峯が主人公にシフトするのかなと思ったら、その3巻前半までは継続して段誉が主人公のポジションに留まってたのが意外でした。
 金庸先生も、この時点では段誉ひとりを明確な主人公、物語の中心人物に据える方針だったのかなと思われます。
 しかし、金庸先生が喬峯のキャラとしての可能性に気付いた時、彼は新たな主人公としてクローズアップされ、かくして武侠小説史上屈指の悲劇的な運命の幕が開いたのでしょう。

「人造英雄」としての喬峯、そしてその終わりなき呪縛

 ドラマと小説の違いのひとつに、ト書き部分とそこに込められた情報というものが挙げられます。
 で、そこから拾い集めた情報や受けた印象としては、自分の出生の秘密を知り、それを受け入れて「契丹人の蕭峯」と名乗るようになってからも、彼の心の奥底には中原の礼教と論理に育まれ構成された「漢人の喬峯」が存在していました。
 では、その「喬峯」とは何かといえば、雁門関での不毛かつ不当な殺戮の当事者となった漢人武林の大人物たちが、自らの後ろめたさ、そして出生の猜疑心を隠したまま「漢人の英雄」となるように誘導した、いわば「人造英雄」としてのアイデンティティだったように思えてなりません。
 そしてその欺瞞は、出生や血統を理由にした反逆を予防するためのものであるだけに、恐らくは念入りに彼の人格を抑制する安全装置としての呪縛となっていたのでしょう。

 その「喬峯」の呪縛は北宋官兵の契丹人に対する殺戮と略奪という醜悪極まる光景を目の当たりにし、その官兵を倒して契丹人を救った以後も働いていました。
 これはドラマ版の話になりますが、序盤のオリジナルパートに出てきた雁門関駐屯部隊の指揮官は立派な人物だと描かれていました。だから、蕭峯も「あの将軍がこんな真似を許すはずがない!」と激しく動揺していました。でも、「宋の民に手を出すよりはマシだろう」くらいの理由で実際は黙認していたんじゃないか。
 何故なら、原作だと、その官兵がはっきりと「将軍もこれだけ“収穫”があれば満足するだろう」と笑いながら言っていたからです。

 これほどの事件に直面し、「以後は宋人であることを誇りとせず、契丹人であることを恥と思うまい」とまで言った蕭峯ですが、それでも、その価値観は漢人社会で植え付けられたものでした。

 そう考えていくと、リアルタイムの金庸ファンから上の上を越えた「絶頂人物」とまで評された喬峯の気高さも、実は漢人武林の欺瞞と傲慢の産物のようにすら思えてなりません。

喬峯の仕掛けた皮肉、太祖長拳vs少林武功

 育ての両親と最初の師匠殺しの濡れ衣を着せられ武林の人民裁判に掛けられた喬峯の、誇りと意地を前面に押し出した抵抗は、天龍八部前半の名シーンのひとつです。
 もちろん2020年版ドラマでのこのパートには力を入れていましたが、ひとつだけ再現していなかった要素があります。
 喬峯は原作ではこの時、少林派の高僧に対して、得意技の降龍十八掌ではなく、太祖長拳という武功で応戦します。
 太祖長拳とはレベルさえ問わなければこの時代の中原の武芸者であれば誰でも使える、いわばコモン武功と言って良い武功です。
 しかし、この武功にはもうひとつの側面があります。
 それは、武術の名手でもあった北宋の太祖皇帝である趙匡胤が編み出したとされる拳法だ、つまり開祖も当代の使い手もまぎれもなく漢人の武功ということです。
 一方で、彼がこの時対峙した少林派の武功の開祖は達磨大師という胡人
 喬峯が武林裁判に掛けられた根本的な理由は何かといえば、突き詰めれば「彼が契丹人だから」という民族差別に他なりません。
 喬峯のこの選択は、その民族差別感情を正面から皮肉る一手だったと言えます。
 事実、この一手を受けて、武林裁判の当事者たちの中には「胡人である達磨大師を中原武林の偉人と見なさないわけにはいかないのなら、契丹人の中に善人がいないと言えるのか?」と動揺する者も出始めました。
 民族差別感情が時代を越えて存在するものなら、わずかな切っ掛けから、口にこそ出せなくても自らの偏見に対して懐疑的になれる者もいる。
 もっとも、この皮肉を理解できるくらい知性も思慮も持たない者は何を見聞きしようが「とにかく胡人を殺せ!」という凶暴な短絡性から抜け出せず、こういう手合いにはつける薬もありはしない。
 天龍八部の物語としての普遍性とは、こういった面にも宿っていると思うわけです。

 ちなみに、その太祖長拳とはどんな拳法か。
 YouTubeで調べてみたら、あっさり見つかりました。

 まったくもって、便利な世の中になったものです。

今回の雲南段氏、そして段正淳アワー

 何気に史実バリア持ちでもありやがるくせに史実ガン無視でやりたい放題やりやがる下半身スキャンダルの帝王、段正淳。
 このオッサンも、武芸者としては原作だと2020年版ドラマとはちょっと違った顔を見せてくれます。
 前回の感想記事でも指摘した通り、段氏御家芸の一陽指は接触するかそれに近いくらい近射程の武功です。なので、鋼の長剣を用いることもありますし、当然その剣法についても独自の技術体系があります。
 これが「段家剣」という剣法なのですが、原作の記述によると、これも雄渾な内功を前提とする、とのことです。
 つまり、一陽指を会得できるくらい内功をベースとすることで、段家剣などの他の武芸を会得しやすくするのが、武林門派としての天南段氏のスタイルと思われます。
 そうなってくると、北冥神功の力で強力な内力を獲得し、かつ一陽指の上位互換の六脈神剣を会得したこの時点の段誉なら、段家剣など他の御家芸も習得できそう
 ドラマだと、この時期を境に急速に段誉が強くなったのも、いったん帰国したあの子に対して君主にして掌門である正明陛下直々の短期速成コースで指導されただろうし、慕容復という恋のライバルを得た今となっては王語嫣を振り向かせるためにも、かつての武芸アレルギーを乗り越えたことも想像がつきます。
 ……なお、原作ではこの段階にいたるも、慕容復本人は登場していません。
 いや、“西夏の李延宗”は出てきてるし、あれが慕容復だってんなら出てはきてるんだけどね。
 全ての事情を知った今読むと、「この兄ちゃん、そこまでもったいぶるほどのタマか?」って気もするんだよなあ。

 閑話休題。

 この段正淳の下半身スキャンダルマンぶりが全開で判明するのも、概ねこの巻あたりからです。
 雁門関の惨劇の話を聞きたがってる蕭峯と、自分の御落胤大量生産の話を混同した正淳野郎の武侠アンジャッシュ現象は、阿朱の悲劇のトリガーにもなってるから笑うに笑えないんですよ。このオッサンの、「自分に心当たりある事なら正直に申告する」って律儀さも悪い方へ作用しましたしねえ。

 で、そのてんやわんやの後で、このオッサンが何やってたかというと、今度は馬未亡人こと康敏との密会。
 原作だと康敏の本性が明かされるのはここが最初でしたね。
 で、この康敏と正淳野郎のラブシーンが、原作だとドラマ以上に無駄なまでに濃ゆいわ生々しいわ
 こういう作風というか芸風、金庸先生自身の持ち札って感じはあまりしないんですよね。誰かの入れ知恵だとしたら、考えられるのが、後に武侠小説史上に残る某重大事件を引き起こす倪匡、もうひとりは金庸先生と文通していたって話もある古龍先生。なんか、古龍先生なんじゃないかって気がするなあ。
 そんなわけで、段正淳。
 このオッサンは、正明陛下に万一のことがあったら玉座に座ることになるって自覚あるんだろうかと聞きたくなる。
 でも、大理国も大概のんびりしてるからなあ。原作だと、四大護衛だけでなく政府首脳とも言える三公まで同行して国政に支障もなさそうだったし。というか、誰が行政を担ってるんだよ、この国。

 そんな面子を引き連れて少林寺高僧の変死事件の調査というれっきとした大理国の公務で北宋に入国しながら、それをそっちのけで昔の愛人の隠宅に二度もデートしてるって時点でギルティすぎる

 この画像が浮かぶんだよな、やはり。

秘密結社としての丐幇と史実の北宋武林

 小説という媒体の利点もあって、原作を読むと秘密結社としての丐幇の仕組みも分かりやすくなっていました。
 丐幇構成員は袋の数で幇内の序列がわかるようになっています。長老クラスは九袋、喬峯排斥を主導した全冠清ら分舵舵手クラスは八袋、という具合です。また、袋の数で定まる序列の他に、役職も重要視されます。白長老が務めた執法長老とその配下の執法弟子もそれにあたります。
 他作品で分かりやすい例をあげると、ニンジャスレイヤーのロード時代のザイバツ・シャドーギルドが割と近いかな。
 そんな丐幇ですが、喬峯排斥後は町の庶民に対して露骨に酒食を乞うだけでなく路地裏で犬などの動物を捌いて食べるなど、急速に幇内の規律が乱れていく様が描かれていました。
 不世出の英雄を幇主の座からあんな形で排斥し、執法長老はドロ沼の不倫スキャンダルの当事者、加えて内紛や変死事件で生じた空席は未だに埋まっていない。
 こんな状況が生んだ丐幇の混乱と堕落は、明らかに組織を弱体化させていることが伺えます。

 原作ならではの利点として、巻末の訳者による解説があげられます。
 例えば、前述の北宋官兵による蛮行が、後晋を滅亡させたときの契丹軍による略奪と殺戮の加害者と被害者を反転させたものだということも指摘されています。
 そして、この時の契丹軍に対するレジスタンスは、金庸バースにおける丐幇を始めとした北宋武林の思想性を確定させたことが伺えます。

 では、史実ではどうだったかというと、士大夫階層の主導する文治主義国家というイメージに反して、北宋の庶民社会は武術と密接な関係を持っていました。
 それも単なる興行としての格闘技ブームというだけでなく、民兵隊や自警団という「地域共同体の武装組織」としての役割を担える練度と規模と規律を保有していたそうです。
 武侠作品における門派のイメージの源流のひとつは間違いなくこういった史実でしょう。
 そして、この史実における武林門派こそが、天龍八部の後の時代に待ち受ける宋金戦争で岳飛たち抗金名将の元に馳せ参じた義勇兵たちの中核だった。そう想像することもできます。


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