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🏃‍♂️全国高校駅伝第41回大会🏆と向日町競輪場🚴‍♂️🚴‍♀️🚴🏿‍♂️🚴‍♀️🚴‍♂️🚴🏿‍♀️🚴🚴🏼‍♂️🚴🏼‍♀️🚴‍♂️そして恩師吉田監督の思い出💭

皆さんこんにちは、ラグマスターラグハウスの親方のPikaichiです。ラグハウスとは古着のリサイクル工場の事です。常日頃より、古着のリサイクルや回収にご協力下さり有り難うございます!!

今回は番外編、『🏃‍♂️全国高校駅伝第41回大会🏆と向日町競輪場🚴‍♂️🚴‍♀️🚴🏿‍♂️🚴‍♀️🚴‍♂️🚴🏿‍♀️🚴🚴🏼‍♂️🚴🏼‍♀️🚴‍♂️そして恩師吉田監督の思い出💭』と題して、ラグマスターが高校時代に指導された恩師の陸上部監督や、競輪を始める事になったきっかけの話です。

1990年、第41回の全国高校駅伝大会の記念Tシャツ

いつものように古着を選別していた時に目が留まったのが、上記の1990年第41回の全国高校駅伝大会の記念Tシャツ。

埼玉の出場が飯能高校だ、『ちょっと待てよ、この大会は確か京都まで応援に行った大会だったよな・・・』と記憶をたどる。

間違いない、1990(平成2)年12月23日に開催された全国高校駅伝大会に埼玉県立飯能高校が久しぶりに優勝して出場、そして京都まで応援に駆け付けた大会だ。

11番が飯能高校

この当時ラグマスターは飯能高校の陸上部の生徒たちを、駅伝大会や試走の時などに車で送り迎えしていたのだ。そして飯能高校がこの年の埼玉県大会で優勝して晴れて全国高校駅伝大会に出場、ラグマスターの恩師でもある飯能高校の吉田監督から京都へ招待されたのだった。

埼玉県の陸上関係者で、この吉田監督の事を知らない人はいないだろう。新任教師として赴任した埼玉県立豊岡高校(注1)を、高校駅伝で全国大会に2度出場させ、インターハイには毎年出場する強豪校に作り上げた。ラグマスターはここで1976年~78年まで、吉田監督の指導を受けたのだ。

その後、1979年に新設校の所沢西高校に移動し、一から陸上部を作り上げる事に。この頃からラグマスターが選手の送迎を手伝うようになった。大会や試走などは当然だが、合宿にも帯同するようになった。ここも強豪高校に育て上げたが、駅伝では埼玉栄に阻まれ全国大会には出場が叶わなかった。後に実業団のホンダで活躍する大澤陽祐や横田芳則などは吉田監督の所沢西高校時代の教え子だ。この他にも数多くの箱根駅伝や実業団で活躍する選手がいる。

そして最後に赴任したのが前掲の飯能高校(注2)だ、赴任した当時から陸上部は強かったが、駅伝ではしばらくの間全国大会には出場できていなかった。この年の優勝が何と20年ぶりの快挙だったのだ。そして翌年も連覇する事になる。

1976年に埼玉栄が私立高校として埼玉県大会で初優勝してから2023年の47年の間に、公立高校で優勝したのはたったの3校で実に5回しかないのだ。その内の2回が吉田監督が率いた飯能高校だ。ここでも堀口貴史(ホンダ)や箱根駅伝、実業団で活躍する選手を育てている。

定年退職後は東京農業大学第三高等学校や聖望学園でもコーチとして多くの陸上選手の育成にかかかわった名伯楽だ。

注1、現400M日本記録保持者の佐藤拳太郎の母校
注2、2000年シドニー五輪男子マラソン日本代表の川嶋伸次の母校

そんな吉田監督に招待された京都へは、大会当日に西武新宿線の始発に搭乗し、東京駅から新幹線で京都まで向かい、京都駅から西京極陸上競技場へとタクシーで向かったのだった。

大会終了後に監督や選手に応援のOBなどと、宿泊先の『魚岩旅館』に向かい晩餐会、食後にOB連中と表に出て梯子酒、〆に京都駅前の屋台風の店でラーメンを食べて就寝したような・・・

翌日は新幹線の発車時刻(多分午後3時ぐらい)までが自由時間で、京都駅が待ち合わせ場所。生徒たちは新京極あたりでお土産屋巡り、OBや父兄は半日バスツアーに行く者あり、個人で寺社巡りする者あり、そして吉田監督とラグマスターは京都駅でタクシーを拾って向日町競輪場に向かったのだった。

吉田監督が競輪をするようになったのは豊岡高校の監督時代だ、陸上部の教え子(注3)が競輪選手になったので、最初は職場見学のつもりで行ったそうなのだが。
注3、豊岡高校陸上部出身の競輪選手、村田一男(31期)、山下輝夫(32期)、長谷川毅彦(43期)、四谷俊雄(46期)

しかし、元々が凝り性だったのと、自宅が西武園競輪場のすぐ近所だった事も有りあっという間にはまり込み、教え子が走っていない開催日にも競輪場に行くようになったそうだ。

そんな吉田監督にラグマスターが半ば強引に連れ出されて、初めて立川競輪場に行ったのは1989年の事だった。その前日の夕方から、前出の四谷(ラグマスターと高校の同級生)の自宅で、吉田監督、俺、そしてもう一人の同級生細田の4人で🀄🎲徹マンして朝方少しだけ仮眠、そのまま俺だけ立川競輪場に拉致されたのだった。(四谷は現役選手だから当然入れない、細田も何か予定があったんだろうな)

その当時のラグマスター(29歳)は麻雀🀄🎲はするが競輪🚴🏽‍♀️🚴‍♂️には、あまり良い印象を持っていなかった。なぜなら、ラグマスターの父親も競輪好きだったからだ、父親ばかりか周りの資源回収組合の連中も競輪好きけいりんきちがいばかりだったからだ。

何しろみんな仕事をほっぽり出して、昼前から競輪場に行っちゃうんだから!そして勝っても負けても、大酒🍻🍶飲んでみんなベロベロなんだからさ。こんな連中見てたら、競輪なんてろくでもない奴がやるギャンブルだと思うじゃない。

しかしその日以来ラグマスターも、そのろくでもない奴らの一員にどっぷりと浸かる事になってしまったのだった。但し、日曜祭日以外は行かないけどね。

話を京都の向日町競輪に戻どして、その日は4,5レースぐらい勝負したが二人とも一つも当たらず💸。いつの日か必ずリベンジしに戻ってくるぞと、向日町競輪場に別れを告げて新幹線に飛び乗ったのだった。

ラグマスターはその数年後に家族旅行で正月に京都を訪れ、家内と娘2人を太秦の映画村に送り出し一人で向日町競輪場で勝負した。この時も一つも当たらず、その時にも必ずいつかリベンジしてやると誓ったのだったが、それ以来チャンスが無いままだ。

ちなみにラグマスターは穴車券で大金💴を狙うタイプ、一方の吉田監督は硬そうな車券に万札💴をぶち込むタイプなんだが、駅伝大会の選手のオーダーの組み方では大博打🎴🎲🀄を打つタイプ。

豊岡高校が優勝🎊した1974年の埼玉県全国高等学校駅伝競走大会では、埼玉県ナンバーワンのエースK選手を3区に温存し、1区には準エースのA選手を投入。なんとこの準エースが吉田監督の期待に応えて快走、3区のエースが他校を引き離す展開に持ち込み、2度目の全国大会出場🎉を決めたのだった!その時の新聞の見出しが『大博打』だったと記憶しているのだが、資料が見付からないので確かではない。

ラグマスターが高校3年生で出場した、1978年に茨木県笠松~那珂湊市で開催した関東高等学校駅伝競走大会でも、この吉田監督は奇抜なオーダーを組んで他校の監督や選手たちをビックリさせたのだったが、この話はまたの機会に記事にしたい。

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