生きてること自体がダイバーシティ
この5-10年とくに、世界的に、
ダイバーシティのムーブメントが起こっている。
とっても素晴らしいこと。でもどうしてだろう。
たまに違和感を覚えちゃう。
ダイバーシティという言葉の先に、
単なるカテゴリーしか見えない時は、特に。
(LGBTQIA、女性など)
そもそも人をカテゴライズすること自体
無理があって、敢えて言うなら、
人は無数のカテゴリー×カテゴリー×カテゴリー...
で成り立っていると私は思う。
”ダイバーシティ(多様性)”という単なる言葉遊びで、
中身が伴っていないことに、気持ち悪さを感じる。
今はダイバーシティの時代だからっと、
少し前の”グローバリゼーション””グローバル化”のように、
突然流行のものを身につけるかのように口にし始める人を見ると
「何を今さら言っているのか」という疑問と
「どうぜ”流行”が終わると気にもしなくなるんだろうな」という
冷めた目を向けてしまいそうになる。
流行は、ある意味では知名度をあげる上では有効な手段、
でもそれを流行で終わらせてしまうと、単なる消費と同じ。
グローバリゼーションもダイバーシティも、
その言葉が存在する限り、そうではない社会が存在している
ということの証。なぜなら、それが当然の社会であれば、
普通のことであれば、そんな言葉は必要がないから。
普通のことに名称はつかない。
ダイバーシティも、
本当は社会的マイノリティといわれる人々の存在を知り、
当然のようにその人々ありきの社会にしていたら、
ちょっとした想像力と他者への思いやりがあったら、
存在する必要がなかった言葉かもしれない。
世の中には色々な人がいる。
例えば、色々な考え方の人がいて、人それぞれ得手不得手があって、
それぞれがおぎあいながら、相互依存しながら生きている。
そんなシンプルなこと。カッコいい言葉なんかで呼ばなくて良いから、
言葉遊びで終わらずに、いつかその言葉が必要なくなるぐらい、
自分らしく生きていける世の中にしたい。
自分らしく生きているだけで、
既にダイバーシティなんだ。