
「職場」を見に行く 第2回(全5回)
第2回 職場を革命する者
その朝、わたしはお仕着せのモーニングルーティーンから解放され、ゼロからの自由意志で「職場」に行くことを決意した。
いくら多様化が叫ばれようと、出勤には朝のイメージがある。おとといも朝。きのうも朝。きょうもあしたもあさっても朝。毎朝毎朝。永遠に続く運命の輪を断ち切るような決意で、わたしは宣言した。
よし、きょうは「職場」を見に行こう!
新鮮だった。その新鮮さを軸に遠心力で勢いをつけて部屋を飛び出すと、ぴったり正午。よ~し!
ここで確認しておくと、これは出勤ではない。

前回の繰り返しになるが、「職場」はわたしの職場ではなく、わたしがグーグルマップに誤って立てた青いピンだ。職場ではない。つまり、そこに行くことは出勤ではない。あえて言えばカッコつきの「出勤」になるが、あえて言う意味などない。
無意味という意味、でもない。この「出勤」にはデュシャンも赤瀬川も寺山も噛んでいない。わたしはただ無に向かって宣言した。
よし、きょうは「職場」を見に行こう!
無に向かって明るくしゃべる人の恐ろしさ。白昼のホラー。ミッドサマー。あと、「見に行く」という表現のスカスカ感も気になる。むろんほんとうの職場ではないから「出勤する」は使えないけれど、だからって「見に行く」はどうにも力が抜ける。
行動は本質的に大小の思想を伴い、それは言語で記述され記録されうる。そのエッセンスのあらわれが「動詞」であり、つまりあらゆる思想は動詞に還元できるのであり……
いやどうでもいい〜〜~〜~~~~~~~〜〜~~〜~~~~~~~〜〜~〜~~~~~~~〜〜~〜~~~~~~~〜〜!!!!!!!
とにかくこれは「職場」を見に行った記録、あるいは「出勤」の記録である。

いま「出勤」が始まる
グーグルマップでしか見たことのない「職場」への行き方を調べるのにも、むろんグーグルマップを使った。目指す「職場」は埼玉県上尾市。まずは国分寺駅から西武国分寺線に乗ろう。昼下がりの「出勤」が心に余裕をもたらす。天気もいい。気分もいい。これなら7時間もあっというまだ。
………ん?
7時間?(※徒歩ルートで)
ちがう、べつにわたしは、災害で公共交通機関が全滅した朝、這ってでも職場に向かおうとしているのではない。そもそも「職場」は職場ですらなく、そんなところに這ってでも「出勤」するやつなんていない。いやいる。誰だ。おれだ。おれって誰? おれはおれだ。ああ、おれか? おれはおれでいいのか? おれはおれはおれはおれは……
やめよう。どれだけ自問自答を繰り返してもその先は無でしかない。無駄の無。無為徒食の無。(社会から)無視されるの無。暗い部屋の真ん中でひとりつぶやく落語『寿限無』の無……
ほんとうにやめよう。思考がめぐるほどよくない路線につながる。わたしはこの列車で生存戦略を立てねばならない。まぶたの筋肉を筋肉だと初めて意識し、ありったけの力で目をつぶる。うん。これでいい。自我を守るためすべてをやめよう。すべてはたいへんだからまず客観視をやめよう。ところでおれはなぜこの電車に? それを考えるのをやめよう。
自問自答の浅瀬をちゃぷちゃぷしてるうち、電車は乗り換え駅の東村山に着いた。

ふだんからたまに利用する駅で、今般の「出勤」という非日常がわたしの日常と文字通り地続きなのだと思い知った瞬間だった。つまり、東村山駅までが日常の光景、その先は非日常なのだ。
西武非日常線(通称:西武新宿線)に乗り換えると、次の目的地、本川越駅はすぐだった。
(第3回 だから僕はそれをするのさ につづく)