『アメリカン・サイコ』 vs 『ファイト・クラブ』 (番外編 第七回 『アメリカン・サイコ』について)
<番組概要>
Hey, Paul!
更新が滞ってしまってすみません!久しぶりのRadio18sは、なんと2000年の傑作ホラー『アメリカン・サイコ』について、ゲストも交えて語り合いました。昼はやり手ビジネスマン、夜は連続殺人鬼という引き裂かれた人格を持つ殺人鬼を、クリスチャン・ベイルが怪演。過激な内容が物議を醸した本作ですが、意外に社会派な一面もあったりする!?20年以上も前の作品を今改めて見返したメンバーは、果たして何を感じたのでしょうか。ぜひお聞きください。
<タイムテーブル>
0:00- オープニング
5:35- 本編 感想(ネタバレなし)
13:20- 感想(ネタバレあり)
57:50- エンディング
<放送後記>
こんにちは、noteの更新を怠ってすみません。最後に書いたのが『すばらしき世界』の回についてなので、一ヶ月以上放置していた感じですね。大変良くない。あまりに更新が滞納していたため、これから書く『アメリカン・サイコ』回は最新回でもなんでもありません。でも面白いので是非聞いてね!
さて、今回は番外編第七回『アメリカン・サイコ』について取り上げました。しかも久々のゲストとして、山下の友達メイさんをお呼びしました。メイさん、ありがとうございました!!
20年以上も前の作品を改めて鑑賞しラジオを録っても果たして面白くなるのか、若干不安もありましたが、実際見てみると、この映画(及び原作)の先見の明に舌を巻きました。
本作は、例えるなら漂白剤のような映画だと思いました。主人公のベイトマンが残虐な殺人を繰り返すたびに、人間の体から溢れ出しているはずのどす黒い血や臓器はほとんど映画の中で見せつけられません。あるいは、ベイトマンや彼の同僚たちの他者への想像力が全く欠けた冷徹な性格も、本作はどこか冷めた視点で見つめるだけです。グロテスクな描写の代わりに、画面を覆い尽くすのは清潔なインテリアやハイブランドのファッション、精緻に作られた名刺などです。それらは、おぞましいエリートビジネスマンの外面を取り繕う漂白剤なのです。
本作が公開された2000年の前年には、『ファイト・クラブ』という映画が公開されています。ベイトマンと同じように、インテリアやファッションカタログ通りの生活を送ることに嫌気がさした主人公が、タイラーと名乗る男と出会ったことで内なる暴力衝動を解放していく物語です。
『ファイト・クラブ』は、タイラーがカリスマ的存在となり資本主義が支配するアメリカにテロを仕掛けていくという展開になるので、公開当時に大きな論争を巻き起こしました。
一方で、『ファイト・クラブ』ではこんなセリフが登場します。
「人生の持ち時間はいつかゼロになる」
限られた時間を生きるしかないのならば、一瞬一瞬を無駄に生きるな。やりたくもないことに時間を割くな。つまり、この映画は、人生に何の目標も充実感もなかったエドワード・ノートン扮する主人公が、タイラーと出会い彼を乗り越えることで(彼の思想を否定することで)生きる目的を掴むまでの物語なのです。
『ファイト・クラブ』の中で、主人公が自らの暴力衝動を暴走させてしまう場面で、彼の暴力の捌け口になる男を演じていたのは、ジャレッド・レトです。
ジャレッド・レトは、『アメリカン・サイコ』ではベイトマンのライバルである、やり手ビジネスマンのポールを演じています。『アメリカン・サイコ』を見た人なら、ジャレッド・レトがこの2作品で同じような役を演じていることがわかると思います。
↓『ファイト・クラブ』
↓『アメリカン・サイコ』
『ファイト・クラブ』と比較すると、『アメリカン・サイコ』で描かれる絶望の深さがよくわかります。人間の尊厳よりも金儲けが優先され、弱者を食いつぶして成長するというサイクルを果てしなく繰り返す資本主義社会の中で、「特権」を持ってしまった高学歴・高収入の白人男性であるパトリック・ベイトマン。彼は、この構造が向かう未来に希望が全く見えないことへの絶望や虚無感を殺人行為にぶつけます。『ファイト・クラブ』の主人公と違って、ベイトマンはいくら殺人衝動を解放しても気は晴れません。なぜなら彼は、構造の一歯車でしかないからです。ベイトマンは、殺人を犯した翌朝になると、何事もなかったかのように社会の中に組み込まれてしまいます。彼は裁かれることすらないのです。
何よりこの映画が恐ろしいのは、こうしたテーマが現代でも全く古びていないどころか、より一層重要度を増している点です。貧富の格差が拡大し、全てが「自己責任」の一言で片付けられている現代は、『アメリカン・サイコ』が予言していた加速した資本主義の行き着く先そのものではないでしょうか。殺人鬼ベイトマンが尊敬する人物として名前を出す人物が、ドナルド・トランプというのは、本当に笑えないジョークです。
『ファイト・クラブ』は、ラストシーンで、途轍もないカタストロフの中に置かれた個人を引いた視線からカメラが捉えます。そこには、主人公がタイラーを乗り越えて真に自己を解放する瞬間をあまりにもアナーキーに描く風通しの良さがあります。
『アメリカン・サイコ』のラストシーンでは対照的に、カメラがベイトマンの目に超クローズアップします。呪詛のような言葉を吐き出す彼の内面に入り込むカメラワークの閉塞感。80年代にベイトマンが見た悪夢は、現代でもまだ終わっていないのです。
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