この「すばらしき世界」で怒りを表出すること 『すばらしき世界』について
<放送内容>
西川美和監督の最新作『すばらしき世界』について四人で語り合いました。四人の想いが溢れてこんな長尺になってしまいました。どうしてこの映画はすばらしいのか?どうしてこの世界はすばらしいのか?本当にこの世界はすばらしいのか?そんなことを話し合っています。つのだくんはどう思ったのでしょうか。
<タイムテーブル>
0:00- オープニング
3:55- 本編
5:30- 感想(ネタバレなし)
10:30- 感想(ネタバレあり)
1:44:30- 次回扱う作品は!?
1:46:40- エンディング
ラジオはここから聞けます。↓
<収録後記>
Radio18sの津乃田です。あ、角田です。今回取り上げる作品は、西川美和監督最新作、役所広司主演の『すばらしき世界』です。
噂に違わず非常に完成度が高い作品でした。事前のメンバーの感想も超好評!ということで、「今回は意見が割れない穏やかな収録になるだろう」と思っていたのは、半分正解で半分間違いだった、と言ったところでしょうか。
役者陣の演技、名匠笠松則通による美しい撮影、求心力のある脚本、感傷的になりすぎない演出。本作の基本的なポテンシャルの高さについては、メンバーも意見が一致していました。ここを見るだけでも映画鑑賞料金分の価値はあると思います。オススメです!!
で、終わりたかったのですが、本作の終盤の展開とラストに示されるタイトルの意味に関してはメンバー間で意見が割れました。どのような議論になったのかはぜひラジオを聞いてみて欲しいのですが、ここでは自分が本作を見て思ったことを改めて言語化してみることにしました。
※ここから先は、西川美和監督の『すばらしき世界』のラストについて言及しています。かつそれはあくまで、メンバー津乃田、いや角田の個人的な見解に基づくもので、Radio18s全体の見解を示すものではありません。
主人公の三上は、常に周囲の人間から「怒り」を抑制するように言われます。カッとなったらすぐに怒鳴り暴力を行使するヤクザ気質では現代社会では生きてはいけないからです。怒らずその場をやり過ごして適当に生きる術を三上が身につけるにつれて、彼は仕事が貰えるようになり社会の中に居場所を見つけます。
ここだけ見れば孤独な人間に対して周囲の優しい人々が手を差し伸べる感動的な物語に見えます。実際終盤の展開までは、先述した本作の圧倒的な地力の高さのために、この物語は強い説得力を持っています。特に、初めは三上をテレビ番組のネタとしか思っていなかった津乃田(お気づきかと思いますが、なんとこの仲野太賀扮するキャラクターと私の名前が同じです!ま、だからなんだという話ですが)は、彼を取材する過程で次第に三上と心を通わせるようになり本気で彼についての小説(ルポタージュ?)を執筆しようと決心します。浴場で津乃田が三上の背中を流しながら「三上さん、もう(刑務所に)戻らんといてくださいね」と話す場面は、仲野太賀の演技力も相まって非常に感動的なセリフに聞こえます。
しかし終盤で三上は苦渋の決断を迫られます。働いている老人介護施設で、障害を持つ職員に対する酷いいじめを見てしまうのです。今まで通りいじめている職員をボコボコに殴ってしまうのか?それとも彼の就職を手伝ってくれた人達の顔に泥を塗らないように黙過するのか?
結局彼は後者を選びます。その後三上は突然死んでしまいます。より詳しい物語の展開としては、三上はいじめを見過ごす→いじめられていた職員から花を貰った三上が泣いてしまう→帰宅中元妻から遊びの誘いを電話で受ける→三上は帰宅し、雨が降っていたため洗濯物を取り込んでいる途中で床に倒れ込んでしまう→翌日彼の死を知った津乃田らが悲嘆にくれる所でエンドロール、という流れです。劇中で具体的な死因が説明されることはありませんが、物語の流れや良い意味で消化不良なラストを踏まえると、三上はまるで周囲の人間のために自己を抑えた結果死んでしまったように思えます。
この映画を見ているうちに「いじめを目の当たりにした時に取るべき選択肢は、ボコるか見過ごすかの二択ではないのでは?」と思えてきます。施設長の人に相談するとか、職場の人が無理ならそれこそ津乃田などの彼を助けてくれた人に相談することもできます。なぜそれを三上はしなかったのでしょうか。自分は、三上がそうした一番妥当な選択肢を知らなかったからだと思います。彼はヤクザ気質から抜け出すことに苦心しますが、かといって全く変化できない人間ではありません。周囲の人からの愛情を感じるうちに少しずつ自律した生活を送ることができるようになります。施設の場面の直前では、津乃田、彼の身元引受人の弁護士夫婦、三上と親しくなったケースワーカーやスーパーの店員らが、三上の就職を祝う場面が描かれます。ここで津乃田以外の人々が三上に対して「許せないことがあっても我々の顔を思い出して堪えること」を説かれます。理不尽を見て見ぬ振りをするぐらい人間はテキトーに生きているのだと。施設で三上はこの言葉に忠実に従っただけなのです。
この物語は何を言わんとしてるのでしょうか。三上の人間性の最大の特徴が「怒り」であることは象徴的です。理不尽や不条理に対して怒りの声をあげる行為は、近年何かと忌避されています。「批判は何も生まない」「批判は足を引っ張っているだけ」「批判するならお前がやってみろ」などの言説が飛び交い、社会的弱者が社会的強者に被害を受けた問題に対しても「被害者にも落ち度があった」などの言葉で個人間の問題にすり替えて怒りの声が封じ込められ、社会の課題に対して怒る人々の話す内容ではなくその言葉や態度だけを批判する「トーンポリシング」が起こることもしばしばあります。個別具体で考えなければならないということは大前提ですが、それでも社会に対して怒ることそのものを抑圧する言説は現代の日本で結構な頻度で見られるようになっています。
「私の人生を滅茶苦茶にしに来た私の人生の救世主」とは、韓国映画『お嬢さん』(2017)の名台詞ですが、このセリフは韓国の一部のフェミニストの間では自身とフェミニズムの関係を示す言葉として使われているそうです。フェミニズムという気づきを獲得することで、日常の至る所に女性差別を見出してしまい傷つくことは残念ながら避けることはできないかもしれません。それでもその気づきは、知らぬ間に束縛されていた人生を変える救世主にもなりうるのです。『すばらしき世界』を見て自分はこのセリフを思い出しました。社会の歪みを見ておかしいと感じた三上の怒りの感受性は、彼を葛藤に追い込むと同時に彼の人生をより良い方向に導いたかもしれません、周りの人間がそれを抑えつけなければ。
この映画に悪人はいません。でもまるっきりの善人もいません。三上を救っていたはずの人間達はいつの間にか彼を殺してしまいました。では彼らはどうすれば良かったのか。不条理に怒って立ち向かうことは大切です。でもそれをいつもできるほど人生は楽ではありません。日々の生活もあるし。しかし、目の前で不条理が起これば何か感じずにはいられません。どうすればいいんだ本当に。この問いは、そのまま「この世界を我々はどう生きれば良いのか」という問いにもつながります。社会の不条理と人間達の優しさが同居した世界は果たしてすばらしいのか。映画は、答えを出しません。世界は、安易に肯定も否定もできないからです。「すばらしき世界」という言葉が空中に放り投げられた後、観客は映画館を出て世界に戻らなくてはなりませんが、その世界は今までとは同じように見えるのでしょうか。しかし、たとえ後味の苦さに胸が傷んだとしても、決して単純にすばらしいとは言い切れない世界の側面を見せることで観客に気づきを与えてくれた『すばらしき世界』は、やはりこの世界を生きる我々にとっての救世主でもあるのです。
またしても長文かつ読みづらい文章になってしまい申し訳ありません。最初にも書きましたが、この意見は極私的な角田の意見ですので、これとは違う意見があって然るべきだとも思います。しかし、社会に怒ることそのものに抵抗を感じる昨今の風潮に対してようやく否を突きつける作品が日本でも出てきたことは嬉しくもあります。そうした作品はどう語るべきなのかはまだ自分でもよくわかっていないのですが、、、。
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