レヴィ・ストロースを読んでいる

突然ですが。
今年の12月31日までの目標を自分の中でいくつか掲げている。

石黒正数「天国大魔境」の第1巻をクリスタで全ページ模写する。
「キム・ラッキの人体ドローイング」を全ページ模写する。
そして、レヴィ・ストロースの著作のうち主要なものを読破する。

これだけだ。仕事をしながらできるのは、これが限界だ。
そして、レヴィ・ストロースの著作がかなり面白い。いや、難解で一割も理解できないのだが、それでも、自分の思考が強化されていくような快感がある。古典とはそういうものなのかもしれない。

今まで読んできたのは「悲しき熱帯」「構造人類学」の二つと、日本人が書いた入門書をいくつか。そして、今読んでいるのが、「親族の基本構造」だ。興味のない人にとっては何のこっちゃ、という本だろう。だが、人間の文化に興味がある人にとっては、あるいは、面白いかもしれない。少なくとも私にとっては面白い。

レヴィ・ストロースとは何者か。詳しくはWikipediaを読んでいただきたい。Googleで検索すればすぐ出て来る。
簡単にまとめると、あの二つの大戦の間の時期にアマゾンのジャングルでフィールドワークを行い、戦争が終わった後で大量の文献を読み込み、「構造主義人類学」という学問の金字塔を打ち立てた人だ。知の巨人だ。
「悲しき熱帯」には、ジャングルの原住民たちの中で生活し、口噛み酒を飲んだ話や、安住の地を求めて百年以上ジャングルを彷徨っている部族の話が出て来る。タフで、それでいて繊細な人だ。

では「構造主義人類学」とは何だろうか。
今まで読んだ限りでは「文化の文法を発見しようとする」人類学のことだと思う。ちょうど、言語学における文法の研究と似ている。
我々は、日本語を話したり書いたりできる。その際、文法法則など意識して喋ってはいない。にもかかわらず、文法は常に言語とともにある。
それと同じように、「文化」にも文法があるのではないか。多分、レヴィ・ストロースも、その先達たちも、そう考えた。当事者たちが意識しない文法だ。

なぜ、近親婚は禁止されているのか。なぜ、同じような神話が、世界各地で発見されるのか。なぜ、縄文時代日本列島の広範囲で同じような土器の文様が共有されていたのか。
その背後に、何か文法があるはずだ。

その文法を発見するために、レヴィ・ストロースは、音韻論という言語学の一分野を応用した。(だが、正直音韻論についてはレヴィ・ストロース以外の人の著作も読まないとうまく理解できない。)

こうした発想は、文化を研究しようとするとき、必ず歩いていく道なのかもしれない。

例えば、「縄文時代の終わり、渡来人がやってきて、在来の縄文人を駆逐した」という説がある。これに対する反論も、土器文様の「文法」の研究から行うことができる。
実は、九州以外の地域の弥生土器の文様は、縄文土器に由来を持っているとされる(反論もある)。文様という文化的なものが弥生土器に継承されているのだとすれば、「人種が入れ替わった」などという説がどこまで妥当なのかはかなり疑問だろう。

今、社会は複雑化して、「構造」が剥き出しになったような文化の発見は難しいかもしれない。だが、レヴィ・ストロースの著作を読めば、会社や学校の人間関係に思わぬ「構造」を発見することができるだろう。そして、構造が分かれば、ややこしい人間関係も、すっきりと整理できるかもしれない。
私はこれからも、レヴィ・ストロースを読んでいこうと思う。

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