見出し画像

シンプルライフ|案外なんとかなる不思議

最近ますますシンプルになってきているというか、それを求めてる。
断捨離というのか、シンプルライフ。

何が何でも捨てまくるという感じではなくて、あの時は必要だったけど、今は必要なくなったから今必要としてくれる人がいればその人の元へという気持ち。



ヨガスートラのあまりにも有名な一節。

『Yogas Chitta Vritti Nirodhah.』 - 心の作用を止滅させることが、ヨーガである。 1章2節

文字通りに解釈するにはあまりにも端的だから、元々口伝で伝わってきたというヴェーダの文化に納得する一節。

続く、1章12節
『これらの心の作用は、修習(アビヤーサ)と離欲(ヴァイラーギャ)によって止滅される』

ヴァイラーギャは、「無執着」とも訳される。
ただスートラにはこうも書いてある。

“無執着”と “無関心” は違う、と。

vi=〜がない
raga=色

つまり “色がない”

何かを見聞きして無意識のうちに独自の色付けをしているが、(レッテルを貼っているイメージ)"それをやめよう"、ということ。

"何かに対して色付けした途端に心にさざ波ができる"
とスートラでは解説されている。
まるで、静かな湖に小石が投げられると一瞬にして波が立つように。

それに対してエックハルトトールが「エゴ」の観点から紐解いてくれているのが【ニューアース】だと私は思っているけど、彼はそこでエゴと向き合うために必要なものは「まず離れること」と言っている。
向き合うというより、どう対応すると良いかといった感じ。

見なければ反応しない。
聞かなければ反応しない。
知らなければ反応しない。

もちろん最終的には何を見て聞いても動じない自分で在りたいわけだけど、それには相当の「修習:アビヤーサ」が必要だろう。


だから、もし心がザワっとしたり、何か執着してるな、これ。
ということがあれば、一度「離れる」ということをしてみてほしい。
視界に入れないようにするでもいいし、その場所に行かなくて済むなら行かない。
行かなくては行けないと思っているけど本当にそうか?と根本的に向き合うのも時には良いかもしれない。

私自身も「離れる、見ない、手放す」ということを実践しています。
最近また大きく意識的にトライしてみている。
途中経過としては、まあまあよき、続行予定ってところ。

それでもたまに臭いのがわかっているのに嗅ぎたくなる症候群が発令しそうになるけれど、
「いやいや、これでいつも痛い目見てるじゃん!」
と自分に問うてみる。

断捨離や手放すことの不思議なことって、
"案外なんとかなる"
というところだと思います。

あの時はあんなに「絶対」と思っていたモノや人、コトが
いざ手放してみると、無いなら無いなりに特段問題なく過ぎて行って・・・それでも地球は回ってる的な。

手放すと執着がまた一つなくなる感じも私にとっては今必要かもしれない。

こうでなければならない。
これを持っている自分。

物が多いことが悪いわけではないし、雑貨巡りは好きだし、物欲もあるけど、、、それが冒頭あたりでも記した「無執着と無関心は違う」ということにも繋がるのかな。

ただ所用しているだけならまだしも、知らず知らずのうちに
それを手放す、それがなくなる恐怖みたいなものも付随しているようで。

いつどこで何が起こるかわかないことに怯えて生きるわけではなくて、
だからこそ、シンプルに。あってもなくても全てシンプル。
余白。

ただ言えるのは、物理的に物が少ないと、思考もシンプルになる気がする。
何かを選択する自由さは時に、自分へのプレッシャーになり得る。
迷うほど、選択するほどのオプションがなければ、それはルーティンになる。
心配しなくても刺激的な時代だから、せめてマインドフルに安らげる時間を。

引き続き、自分の心の動きをじっくり観察してみたいです。

いいなと思ったら応援しよう!

SVAHA(すわは)
心に届く何かがありましたら応援していただけたら嬉しいです♪