改めて「何をやる人」問題を考える
昨年、東南アジアから帰国してからそろそろ一年が経とうとしている。この間、自分を名乗るための肩書きに苦慮するようになった。
思えば私は、会社勤めを辞めてから、いつも「その時できること」をやってお金をもらい、それを糧に生きてきたような感じがする。それを続けてある程度のクオリティの技術を提供できるようになったものが、「職業になった」という感じだ。
それが(主に)紙媒体の編集記者だったり、西洋占星術とマルセイユタロットの占術師だったり、ヒーリングだったりする。それらを一旦辞めて2017年海外就職をした。
そこでの仕事はカスタマーサポート、いわゆるコールセンターで、「普通の能力がある人なら誰でもできる」と言われてたけれど、これが私にとっては全くできなくて、何度もクビになりかけながらも周囲の人に助けてもらい、ようやく人並みにできるようになったところで契約期間が終了。
やはり仕事をするなら、天職とは言わないまでも好きなこと、少なくとも苦痛でないことをしなければならないと実感して、元の仕事に戻ったのだけれど、さて自分を名乗る時に語る仕事のことを、何と言っていいのかわからないという戸惑いがある。
「フリーライターです」「占い師です」「ヒーラーです」。どれも嘘ではないし、ライター業については名刺まで持っている。けれども、今現在、どの職業においてもほとんどその仕事をしていない。
例えば、フリーランスならライターの仕事をしたければ、過去の仕事ファイルなどを持って、あるいは企画書などを書いて出版社などに営業に行くべきだろう。占いやヒーリングを生業にしたいのなら、かつてのように集客のためのプロモーションに精を出さなければいけない。
また、フリーから足を洗って、どこかに就職したいならそのためにしなければならないことは山のようにある。なのにどれもやってないのは、やりたくないからだ。
私は「何をやるのか」は決めていないけれど、「やりたくないことはやらない」ということだけは決めた。約30年ぶりに実家で暮らしているから、この状態でも飢えずに済んでいるけれど、今の状況を端的に言い表すなら「無職」が一番しっくりくる。
ところで、かつて私は職業欄に堂々と「無職」と書いていた時期があった。それは「専業主婦」だった時だ。普通に「主婦」とかけば良かったのかもしれないけれど、当時の私は「家事」や「育児」を自分の業務にした覚えはないという気持ちがあった。それらは生きている限り、誰にでも出てくる「仕事」であって、「主婦」という職業の人の業務にすることには強い違和感があったからだ。今でもそれは変わらないが、そこに何の葛藤のない人が「主婦(主夫)」と名乗ることにまで異論を唱える気はない。
しかし、社会全体に「家で育児などをしている(主に)女性」を「主婦」というカテゴリーに当てはめたがる同調圧力があった。それに対する反発が、職業欄に「無職」と書かせたのだと思う。
そんな私の「無職」時代は、離婚をしたことで終了し、その後は何かしらの職業を持ち、その肩書きや業務内容で自分のことを語るようになった。
「フリーライターです」「占い師です」「ヒーラーです」。今だって状況に応じてそう語ればいいし、実際にそうしているけれど、私の内心はそれを拒否しているような気がする。
そんなある時、とある集まりで、自分のことを「プロのニートです」と自己紹介した人がいた。私はものすごくインスパイアされた。
後から聞いた話では、彼には何かしらの権利収入によってしっかりした生活基盤があるらしかった。そこは私とは全く違う。まぁ、確かに自分の現状に自信がなければ「ニート」であることを誇ることはなかなかできないだろう。
しかし、それでも思う。「NEET」の何が悪いんだろう? どこかに勤めているわけではなく(Not in Employment)、教育課程にいるわけではなく(Not in Education)、職業訓練中でもない(Not in Training)ということが、それほど問題にされなければいけないのだろうか?
もう人は「何をやれる人間なのか」「何やって稼いで生きているのか」で自分を語らなくてもいいんじゃないのかな、と思う。最近、英語の学校に行き始めたので、残念ながら私は「NEET」ではなくなってしまったけれど、何か意義や生産性のある仕事をしていない、とりわけお金を稼げる何かをしていないことがその人への判断になるような世の中は生きづらいと思う。
そんな気持ちから、noteでは肩書きの代わりに「何をやる人なのか決めなきゃダメ?」というひと言をつけた。私にとっての「何をやる人(あるいはやらない人)」問題はまだ当分続く。時間はたっぷりあるからじっくり考えよう。