定家と公経で終る百人秀歌

2407.百人一首(定家公経で終る)

結論からいえば、このバージョンは、定家が歌壇の宗家として、嫡男為家ら一門に遺したメッセージ、と想像します。
理由は単純でまさに、定家と公経で終わっているということ自体、です。二人について整理確認します。
公経(1171~1244年)は定家の妻の弟(義弟)ですが、九条家と共に鎌倉政権との強い人的関係を軸に、承久の乱の後は太政大臣や関東申次、として、京での権門となります。鎌倉時代通じて権勢を維持し後の西園寺家の祖でありまた金閣寺の基礎も公経によるらしい。

また定家(1162~1241年)は九条家の家司(執事)の家柄ですが九条家(兼実と慈円は兄弟、良経は兼実の子、道家は良経の子)は頼朝以来鎌倉政権とは好関係を維持します。

定家は承久の乱の直前、後鳥羽院の勅勘(お出入り禁止)の憂き目にあいますが、承久の乱後はむしろこのことが幸いして、朝廷官人としても歌壇の大家としても隆盛を極めた、といっていい。後鳥羽院歌壇ほどの華やかさはないが関東武家に対する京の文化的優越の代表として、歌人定家の地位は盤石となります。「新古今集」では定家は家隆雅経らとともに5人の選者の一人でしかなくまた事実上は後鳥羽院直撰でありプロの歌人としてフラストが募ったことは明らかですが、「新勅撰集」では定家単独で選定します(1235年)。

まさに、百人一首が成立したろうとされる、1235年頃とは、西園寺公経や九条道家が京権勢の中核にあり、定家自身は家柄として最高位の権中納言民部卿を経験、嫡男為家(1198~1275年)は1236年には権中納言、1241年には定家を超える権大納言、に出世する、そんな時期です。
「百人秀歌」は、まさにそんな歌人の家ながら権門の一角となった、定家が、嫡男為家ら子孫に残した歌人らしい遺言、と読むのです。


百人一首・百人秀歌の、まず定家の父俊成の歌から
#83俊成 「世の中よ道こそなけれ思ひ入る 山の奥にも鹿ぞ鳴くなる 」
訳ーー世の中には、本当の道、というものは、ないなあ。山の奥に逃れ入っても、鹿が寂しげに鳴いているのだから。

ここでの心ーー政治的に、本当の道はないなあ、でもありましょうが、歌の道、をもいうのでしょう。思い入る、というのもつくづく深い思いでしょう。

定家の父俊成こそ、歌人であって、いい歌は他に一杯ある。にも拘らず、定家はこれを選んでいる。歌の道は難しい、尽きることはない、と定家はこの文脈では言い残したいのでしょう。

なお、#83は百人一首での順番、百人秀歌では87番です。肩書は皇太后宮大夫俊成、としています、定家や為家のような中納言(閣僚)ではないが、ということに何らかの含意もあるのでしょうか。

#97定家 「来ぬ人を松帆の浦に夕凪に焼くや藻塩の身も焦がれつつ」
ここでの心ーー単なる恋歌ではないでしょう、永遠の何か、歌の道、でしょう、身を焦がす様に追求し続ける、これが自分(たち一門)の生き様だ、でしょう。

なお、百人一首では#97で公経#96の一個後です。


#96公経 「花誘ふ嵐の庭の雪ならで 経(ふ)り行く物は我が身なりけり 」
訳ーー花を誘う 嵐の庭に 降るのは花びらの雪ではなく、年経て老いる我が身だ。

ここでの心ーー定家為家にとって最大最強の支援者です、肩書は入道前太政大臣、とだけです。幸にも定家の義弟という近い姻戚、西園寺公経、です。権勢を極めても老いは間違いなく来る、道を追っているからといっていつまでも生きられるわけではない、歌のために時間を大切に精進せよ、が定家が為家ら一門に言いたいことなのでしょう。

繰り返しますが、百人一首では#96ですが、百人秀歌では、定家が最後から2つ目の100番、公経は最後101番です。最後に持ってきているのは、支援者への敬意・礼儀です。自分や義弟を最後という名誉ある位置においているのは「読者を身内に想定しているから」です。自分より目下へのメッセージ、なのです。

(メモ。同じ伝で、前の記事で蓮生宛色紙の中に定家が自分の分を入れたとは考えにくい、礼法上も傲慢な話だし家隆雅経で終るとした分に一方で自負心の強い定家が自分の分をいれたとはこれまた考えにくい。蓮生宛には定家自身のものは入っていなかったとするのが礼法上常識的だろう。次記事。)
要すれば「歌の道は奥深くて遠い、ひたすら謙虚に精進せよ、仮に権勢名声があろうと人の命は短いのだから」です。普通に遺言すれば面白くもないのですが、百人一首の形なら本望。そして蓮生宛とは別に、「嵯峨山荘=探せんぞう」と謎掛けしたのでしょう。堅物で面白くないと後鳥羽院に揶揄された定家はそれも踏まえ晩年にはギャグもこなせる豊かなお爺さんになったのです(笑)。

このように読むと、
百人一首や百人秀歌には、親子二代の歌人の歌が尋常でない程多いのは重要な意味を持って来ます。才能は遺伝するもの、あるいは家としていい環境を保て、父子相伝を違えるな、という心もあるのでしょう。
参考まで、百人一首中の親子を書き抜いておきます。

#1天智 #2持統、#12遍昭#21素性法師、#13陽成院#20元良親王、#22文屋康秀#37文屋朝康、#25定方#44朝忠、#30壬生忠岑#41壬生忠見、#42清原元輔#62清少納言、#45伊尹#50義孝、#55公任#64定頼、#56和泉式部#60小式部内侍、#57紫式部#58大弐三位、#71源経信#74俊頼#85俊恵法師(親子三代)、#76忠通#95慈円、#79顕輔#84清輔、#83俊成#97定家、#99後鳥羽院#100順徳院、

・・以上17組あります。如何に血統主義の貴族社会の歌集といえども尋常ではない出現率でしょう。(百人秀歌ではなく現行百人一首の話にはなりますが)冒頭の天智持統から最末尾の後鳥羽順徳で目立つところで親子を置き、そして俊成定家の親子の物語は当時の歌人歌壇で知らぬものはなかったでしょう。親子に独特の拘りが定家というひとにはあった、と読んで間違いないでしょう。

(つづく)


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