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橘三千代は百済の王女

藤原鎌足不比等父子同様、県犬養橘三千代も実は百済の王女で、幼いころから天智天武の皇女たちと共に育ち学んだからこそ、この時期、比類なき出世栄達できた、と考えるのが素直だ。県犬養の娘ではいかに有能優秀でも持統以下元明元正女帝や藤原出身皇后たちとの厚い信頼関係など成立しがたい。さらに美努王と生き別れしてまで不比等に再嫁し光明子を得てこれを聖武皇后に据えるなど、百済の王族の血であったがゆえに、主観的にも客観的にも罷り通ったこととみる。以下、橘三千代の一生、【国史常識】と併せ、⇒弊ra

    • 藤原不比等の一生

      日本書紀を最終的にまとめたのは不比等;ここは今や定説だ。そして父鎌足については(弊説だが、百済豊章であることを隠し切り)中臣・藤原鎌足として実態以上に大きく描いたが、不比等自身については逆に実態以上に小さく描き位職異動などの最小限の記録にとどめた。以下、不比等の一生を【国史常識】と並べて⇒弊rac説、を紹介する。【誕生・父母:658年生まれ。父は鎌足、母は車持与志古娘(よしこいらつめ)。誕生地は後岡本宮ないし母実家。ただし古くから天智天皇のご落胤、あるいは父は鎌足でも母は車持

      • 藤原鎌足は扶余豊章

        鎌足(中臣、614-669年)は若き中大兄皇子(=天智天皇)を盛り立て、乙巳の変で率先して蘇我蝦夷入鹿を殺し大化の改新を進め、百済に派兵するも白村江戦で惨敗、死に臨んで敗戦責任を語るも、天智天皇の信頼は厚く最期には大織冠と藤原姓を賜った。その後の日本史名門藤原の祖。これが「紀」の書く藤原鎌足であり国史の基本常識だ。 天智天皇は鎌足より一回り若いとされる。鎌足には定恵と不比等の男子2名のほか何人かの娘がいたが(娘二人を天武天皇の妃としたがより親密だったはずの)天智に娘を嫁がせ

        • 壬申の乱はなぜ乱か?

          「壬申の乱」をどう見るか。反乱軍天武が勝ったのになぜ「乱」というのか(政権変更があったから「変」のはず)?、国史がいつから壬申の「乱」といっているか知らないが、持統を持統と名付けた淡海三船(=大友皇子曽孫)流「天皇藤原史観」をずっと引いているからではないか。奈良時代は天武系や古族支配も続くが、持統不比等の強い思いで「天皇藤原支配の基本」は周到に用意され、やがて光仁桓武以降で安定して達成される。ここは天智と光仁以降歴代天皇の位牌はあっても天武から称徳に至る天武系天皇を見事に外す

          劉仁軌の手品、新羅統一

          663年白村江大勝の見返りに倭と百済遺民に安息を与えたのに似て、劉仁軌は675年自ら新羅七重城大勝後に今度は新羅統一の道を開いてやる。こちらの手品もスザマシク、劉仁軌大勝後は不思議なことに誰が征っても新羅に大敗、だが結局新羅王が謝罪使を送ってすべて許され、676年には唐は熊津都督府・安東都護府を遼東に引揚げ新羅の半島統一がなる、というもの。吐蕃反乱し唐軍主力がそちらに転じたからとの説もあるが吐蕃入寇は厳密には677年以降のことで、劉仁軌の長安中央での政治工作が大きかったようだ

          劉仁軌の手品、新羅統一

          倭と日本

          旧唐書東夷伝は倭と日本が別別に国として書かれていることでも有名だ。北九州に別王朝があった証拠だという向きもあるが違うだろう。白村江敗戦から壬申の乱に至る時期、天智と鎌足(実は扶余豊章)の失政を内外にゴマカスため、記紀改作他多くの韜晦が必要となり、それ故にこの時期中国側の記録に倭と日本は別とか日本人は高慢で不誠実とか書かれることになっただけとみる。旧唐書東夷伝より抜粋引用、新唐書にも臭いは残るが、旧唐書が典型・・ 【倭国】倭國は古の倭奴國(倭のナの国かイト国か)だ。長安から一

          郭務悰とは何者か

          承前。白村江敗戦後4度紀に登場するが何者で何のため来倭したかよくわからないとされる郭務悰についても、劉仁軌劉仁願の私的派遣で休戦撤退協定の義務(債務)履行を求めてやってきたと考えるとわかりいい。要するにお金、無事に百済王族貴族らが財産とともに倭に安住の地を得たのだから、その分け前を寄越せ、というにある。紀から郭務悰関連記事を拾う。なお郭務悰の名は中国史書に一切現れない,この一点でも正史に乗るタイプでなく仁軌ないし仁願の私的スタッフ=謀臣私兵とみるべきだ。 【紀記事】664年

          郭務悰とは何者か

          白村江戦の真相、続

          承前。旧唐書によると、白村江大勝には唐新羅陸軍は間に合わず、劉仁軌と扶余隆率いる水軍が合流地周留に赴く途中、たまたま倭水軍と遭遇し「四戦して皆勝ち敵船四百艘大破燃え上がり血の海になった」大勝、問わず語りに「劉仁軌のお手柄」と読めるようになっている。がこれは大いに疑わしいと前記事で書いた。そうなると、もう一つの原典「紀」はどう書いているか、前記事冒頭紹介の天智紀2年条、少し前後も合わせ再掲、訳文解説とともに以下。秋八月壬午朔甲午、新羅、以百濟王斬己良將、謀直入國先取州柔。於是、

          白村江戦の真相、続

          白村江戦の真相

          白村江海戦惨敗は日本なら子供でも知る史実だが、この原典を訪ねると案外心もとない。原典は次の2か所、と言っていい。一つ。「旧唐書」劉仁軌伝(列伝巻84)の「於是仁師、仁願及新羅王金法敏帥陸軍以進。仁軌乃別率杜爽、扶餘隆率水軍及糧船,自熊津江往白江,會陸軍同趣周留城。仁軌遇倭兵於白江之口,四戰捷,焚其舟四百艘,煙焰漲天,海水皆赤,賊眾大潰。餘豐脫身而走,獲其寶劍。偽王子扶餘忠勝、忠誌等,率士女及倭眾並耽羅國使,一時並降。百濟諸城,皆復歸順。賊帥遲受信據任存城不降。」の150字ばか

          白村江戦の真相

          百済の陰謀、白村江へ

          乙巳の変は中大兄皇子と豊章(=藤原鎌足)が中心で実行したが、後継はすんなり中大兄とならず、孝徳が天皇となった。このあとの出来事、を紀から。645年 軽皇子が即位、孝徳天皇。阿倍内麻呂左大臣、蘇我倉山田石川麻呂右大臣、僧旻と高向玄理が国博士。紀は、皇太子中大兄、内臣中臣鎌足と書く。直後、古人大兄皇子(紀一書に皇太子とも、舒明と蘇我馬子娘の子)一族誅殺。難波長柄豊碕に遷都。 646年より 一連の大化の改新、公地公民(豪族の部曲・民、王族の屯倉・民の私有を禁止)、中央から国造等官

          百済の陰謀、白村江へ

          乙巳の変、黒幕は百済

          承前。乙巳の変と大化の改新の実相については今や百家争鳴だが、流石に「黒幕は百済」と言い切る向きは少ないので、以下少し丁寧に補足説明します。なにか新証拠があるわけでなく、あくまで前後の日本史展開を無理なく説明納得できる点で百済黒幕説が他よりマシということ。今までそう言えないのは、半島で日本関与貢献を語らないのと同じく日本史の要のところで朝鮮人にしてやられたなど認めたくないという偏頗な国粋民族主義が主因。昔から行き来あるのだから影響力が高まる時期や分野があるのはお互い様と素直にな

          乙巳の変、黒幕は百済

          淵蓋蘇文クーデタから乙巳の変へ

          642年淵蓋蘇文の高句麗国クーデタ、641年百済義慈王独裁、同じころの新羅の金春秋金庾信体制、そして645年倭の乙巳の変、いずれも関連し、これが百済高句麗滅亡と新羅半島統一に直結していくというのが最近の通説だ。煬帝の高句麗攻め惨敗を見た唐太宗(李世民)、貞観時代は魏徴や房玄齢らの諫言あって高句麗攻めを控え朝鮮半島三国は仲良くしろと口先介入するだけだったが、高昌を落とし(640年)西域への道を確保し、前記事諫臣魏徴が死に(643年)(実は太宗もついに高句麗に勝てず後悔して魏徴が

          淵蓋蘇文クーデタから乙巳の変へ

          隋書東夷伝

          この時代(隋高句麗戦争や推古馬子聖徳太子の時代)になっても、「三国史記」は倭の関与を無視、「紀」は百済新羅を属国扱いしたまま。どっちもどっち政治臭芬々。中国史書伝統を踏まえる「隋書」記述をもっと尊重していい。妹子や裴世清の往来もあった隋だ、また考古学金石遺物以上に今に伝わる仏像古文書等あり、これらも踏まえ総合的に判断すべきだし可能だ。日本国史の変な伝統は記紀のみならず中国史書についても我田引水的読みをしがちだが、そこから自由でマシな読みがネットで大いに語られ始めているのもあり

          隋書東夷伝

          紀の語る外交:三国との関係

          欽明末期(570年)から敏達初期(572,3,4年)、高(句)麗使者を相楽館(山背に新設した迎賓館。前記事、漂着高麗人を山背に住まわせたとあるから高句麗ムラがあったのだろう)に滞在させ関係強化を意図したが、紀によればコミュニケーションの問題や既存外交勢力の妨害もあり、いったん紀の記事からは消える。が、聖徳太子の時代(595年推古3年)になっていきなり「高麗僧慧慈渡来、聖徳太子の師となる」というから水面下で相当なやり取りがあったはず。隋の中華統一により高句麗の危機感が高まったこ

          紀の語る外交:三国との関係

          紀の語る半島外交:三国等距離

          百済聖明王が漢城を失い新羅に大敗(554年管山城の戦い、百済伽耶併せて29600の将兵が戦死したと新羅本紀)のあと、百済は10万戸程度の小国に逆戻り。対する新羅は漢(山)城や国原(旧中原、現忠州市)や大加羅金官東任那領有を確実なものとして30万戸程度。この時点で北方大国の高句麗は60万戸、南方の倭は(残余任那を含まず)70万戸程度、と推定*。 前記事通り管山城戦には倭は口先介入だけだが、聖明王戦死はショックだったようで百済滅亡と新羅覇権を恐れ、562年、新羅本紀のいう「伽耶

          紀の語る半島外交:三国等距離

          紀の語る半島外交:任那復興

          1145年編纂の朝鮮三国史記はほとんど無視するが、720年完成の日本書紀の語る任那復興あるいは百済との関係を少し遡って年表風に整理する、以下。475ー476年 百済ガイロ王、高句麗長寿王に負け、漢城を失い一度滅亡 477年 雄略、百済モンス王にコムナリ(熊津、任那のアルシタコリ県の別邑)を与えて百済復興に貢献。 479年 雄略、モンス王が死んだので(人質昆支王の次子末多=牟大を)東城王として筑紫の兵500を付けて帰国させる。筑紫の船団が高句麗と交戦。半島に派遣予定だった吉

          紀の語る半島外交:任那復興