魏志韓伝・辰韓伝・弁辰伝の試訳
紀元前後から280年頃まで、朝鮮半島南部の状況。「三国史魏志韓伝・辰韓伝・弁辰伝」の和訳、テキストはネット上の「中国哲学書電子化計画」より、「魏略」逸文付き。https://ctext.org/sanguozhi/30/zh
魏志韓傳(西暦280年頃の記録)
QT韓在帶方之南,東西以海為限,南與倭接,方可四千里。有三種,一曰馬韓,二曰辰韓,三曰弁韓。辰韓者,古之辰國也。馬韓在西。其民土著,種植,知蠶桑,作緜布。各有長帥,大者自名為臣智,其次為邑借,散在山海間,無城郭。有爰襄國、牟水國、桑外國、小石索國、大石索國、優休牟涿國、臣濆沽國、伯濟國、速盧不斯國、日華國、古誕者國、古離國、怒藍國、月支國、咨離牟盧國、素謂乾國、古爰國、莫盧國、卑離國、占離卑國、臣釁國、支侵國、狗盧國、卑彌國、監奚卑離國、古蒲國、致利鞠國、冉路國、兒林國、駟盧國、內卑離國、感奚國、萬盧國、辟卑離國、臼斯烏旦國、一離國、不彌國、支半國、狗素國、捷盧國、牟盧卑離國、臣蘇塗國、莫盧國、古臘國、臨素半國、臣雲新國、如來卑離國、楚山塗卑離國、一難國、狗奚國、不雲國、不斯濆邪國、爰池國、乾馬國、楚離國,凡五十餘國。大國萬餘家,小國數千家,總十餘萬戶。辰王治月支國。臣智或加優呼臣雲遣支報安邪踧支濆臣離兒不例拘邪秦支廉之號。其官有魏率善、邑君、歸義侯、中郎將、都尉、伯長。UNQT
【試訳】「韓」は帶方(郡)の南,東も西も海,南は倭と接している。およそ四千里四方。三種あり,一に馬韓,二に辰韓,三に弁韓。「辰韓」は古えの辰國。「馬韓」は西にあり。韓の民は土著し(遊牧等でなく)種を植え養蚕を知り緜布を作る。以下の国々があり、おのおの長帥(リーダー)がいて、自ら「臣智」と名乗り、次位を「邑借」という。各国山海の間に散開し城郭はない。・・馬韓の国名を羅列、略、・・およそ50余国。大国で一萬餘家,小國數千家,総数で十餘萬戶。「辰王」が月支國にいて治める。(辰王にかぎり?=)臣智は優呼臣雲遣支報安邪踧支濆臣離兒不例拘邪秦支廉?の號を加えることもある。その官には魏率善、邑君、歸義侯、中郎將、都尉、伯長がある。
QT侯準旣僭號稱王,為燕亡人衞滿所攻奪,《魏略曰:昔箕子之後朝鮮侯,見周衰,燕自尊為王,欲東略地,朝鮮侯亦自稱為王,欲興兵逆擊燕以尊周室。其大夫禮諫之,乃止。使禮西說燕,燕止之,不攻。後子孫稍驕虐,燕乃遣將秦開攻其西方,取地二千餘里,至滿潘汗為界,朝鮮遂弱。及秦并天下,使蒙恬築長城,到遼東。時朝鮮王否立,畏秦襲之,略服屬秦,不肯朝會。否死,其子準立。二十餘年而陳、項起,天下亂,燕、齊、趙民愁苦,稍稍亡往準,準乃置之於西方。及漢以盧綰為燕王,朝鮮與燕界於浿水。及綰反,入匈奴,燕人衞滿亡命,為胡服,東度浿水,詣準降,說準求居西界,收中國亡命為朝鮮藩屏。準信寵之,拜為博士,賜以圭,封之百里,令守西邊。滿誘亡黨,衆稍多,乃詐遣人告準,言漢兵十道至,求入宿衞,遂還攻準。準與滿戰,不敵也。》將其左右宮人走入海,居韓地,自號韓王。《魏略曰:其子及親留在國者,因冒姓韓氏。準王海中,不與朝鮮相往來。》其後絕滅,今韓人猶有奉其祭祀者。漢時屬樂浪郡,四時朝謁。《魏略曰:初,右渠未破時,朝鮮相歷谿卿以諫右渠不用,東之辰國,時民隨出居者二千餘戶,亦與朝鮮貢蕃不相往來。至王莽地皇時,廉斯鑡為辰韓右渠帥,聞樂浪土地美,人民饒樂,亡欲來降。出其邑落,見田中驅雀男子一人,其語非韓人。問之,男子曰:「我等漢人,名戶來,我等輩千五百人伐材木,為韓所擊得,皆斷髮為奴,積三年矣。」鑡曰:「我當降漢樂浪,汝欲去不?」戶來曰:「可。」鑡因將戶來,來出詣含資縣,縣言郡,郡即以鑡為譯,從芩中乘大船入辰韓,逆取戶來。降伴輩尚得千人,其五百人已死。鑡時曉謂辰韓:「汝還五百人。若不者,樂浪當遣萬兵乘船來擊汝。」辰韓曰:「五百人已死,我當出贖直耳。」乃出辰韓萬五千人,弁韓布萬五千匹,鑡收取直還。郡表鑡功義,賜冠幘、田宅,子孫數世,至安帝延光四年時,故受復除。》UNQT
【試訳】(紀元前195年ごろ)朝鮮侯「準」がすでに王を僭稱していたが,燕から亡命者「衞滿」に攻め奪われた。《[魏略曰く:戦国時代「箕子」末裔が朝鮮侯を名乗っていたが,周衰え,燕も王を称し東方へ進出、(圧迫された)朝鮮侯もまた王を自称し挙兵し周室を尊び燕に逆襲しようとした。その大夫「禮」(人名?)が諫言し止め「禮」は燕に使いし燕も止させ戦争にならなかった。が朝鮮王の子孫はやや驕虐で燕は将軍「秦開」を派遣して朝鮮の西方を攻め土地二千餘里をとって滿州真潘?に至り国境としたので、箕子朝鮮は遂に弱まった。秦の天下統一に及んで「蒙恬」が長城を築き遼東に至った。時に朝鮮王「否」は秦の来襲を畏れ秦にほぼ服屬したが朝會はしなかった。「否」が死んでその子「準」が立った。二十餘年後、陳勝や項羽が起ち天下は亂れた。燕・齊・趙の民は愁苦し逃亡し「準」を頼った,「準」は彼らを西方に居住させた。漢代「盧綰」が燕王となり,朝鮮と燕の国境は浿水となった。「綰」が反乱し匈奴に逃げるに及び、燕人「衞滿」が亡命し胡服をまとい東の浿水を渡り「準」に詣で降り,「準」に説いて(朝鮮の)西に居住し中國亡命者を収め朝鮮の藩屏になりたいといった。「準」は信じて厚遇し博士と拝し圭を賜い百里に封じ西邊を防衛させた。「衛滿」は亡命者たちと徒黨し,人を遣って「準」をだまして漢兵が十道から来襲したので宿衞に入るといって(朝鮮に)遂に還り「準」を攻めた。「準」と「滿」戰いになった,不敵なことだ。》(敗れた朝鮮王「準」は)將に左右宮人とともに海に逃れ「韓」地に居住し「韓王」を自称した。《魏略曰:その子と親が留在し姓を変え韓氏と名乗った。「準」王の韓の時代にはもとの朝鮮とは往來しなかった。》その後韓王国は絕滅,今韓人でその祭祀を奉ずるものいるが。漢の時代には樂浪郡に属し季節ごとに朝謁した。《魏略曰:昔,右渠(王)が破れる前に,朝鮮相の歷谿卿?は右渠に諫言して用られず,東の「辰國」へ人々とともに移住、その数二千餘戶に及んだが,彼らもまた故地の朝鮮や真蕃とは往來しなかった。王莽の地皇の時、「廉斯鑡」(人名?)が「辰韓」右渠帥となり,樂浪の土地が美しく人民も饒樂ときいて亡命せんと欲した。邑落の田の中に雀を驅う男子一人あり言葉から韓人でないとわかり、問答,男子曰く:「我等漢人で名は戶來(族名?),我等輩千五百人は材木を伐りに韓に来たのだが攻撃され皆斷髮し奴隷となって三年ばかり経つ」。鑡曰:「我は當に漢の樂浪に降るつもりだが,汝も行くか?」戶來曰:「可」と。よって鑡は・・楽浪に向かい許可を得て・・大きな船を用意し辰韓に入り戶來の人びとを確保、その五百人はすでに死に千人のみだったが、「鑡」は辰韓に謂うに「汝は五百人を返還せよ。もしそうしないなら樂浪は萬兵を派遣して攻撃する」。韓曰:「五百人も死なせた,まさに贖うのみ」と。こうして辰韓をでて漢楽浪に帰還したもの萬五千人,「弁韓」は布萬五千匹を贖った,鑡はこれを収取し直に帰還した。楽浪郡は鑡の功義を表し,冠幘や田宅を賜い,子孫數世も安帝延光四年(後125年)には官位を復叙した。》
QT桓、靈之末,韓濊彊盛,郡縣不能制,民多流入韓國。建安中,公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡,遣公孫模、張敞等收集遺民,興兵伐韓濊,舊民稍出,是後倭韓遂屬帶方。景初中,明帝密遣帶方太守劉昕、樂浪太守鮮于嗣越海定二郡,諸韓國臣智加賜邑君印綬,其次與邑長。其俗好衣幘,下戶詣郡朝謁,皆假衣幘,自服印綬衣幘千有餘人。部從事吳林以樂浪本統韓國,分割辰韓八國以與樂浪,吏譯轉有異同,臣智激韓忿,攻帶方郡崎離營。時太守弓遵、樂浪太守劉茂興兵伐之,遵戰死,二郡遂滅韓。UNQT
【試訳】後漢の桓帝靈帝(146-67-89年)の末期,韓(馬韓辰韓弁韓の三韓)と濊は強盛,漢の郡縣では制御できず、民は多く韓國に流入した。建安中(196ー220年)公孫康は南の荒れ地に軍を分屯し帶方郡とし公孫模や張敞等を派遣し遺民を集め韓と濊を攻伐した、旧民は多少戻り、この後、倭と韓もついに帶方郡に帰属した。景初(237-239年)中,魏の明帝は帶方太守劉昕と樂浪太守鮮于嗣に密命して黄海を渡り二郡を定め,諸韓國臣智(首長)に邑君印綬を与え以下の邑長らを追認した。韓諸国の風俗服装はよく民でも郡に朝謁して来る者には皆衣冠を与えた、自らやってきて印綬衣冠を受けるものは千有餘人になった。韓國の本統治?は楽浪郡とし辰韓八國を楽浪郡と(韓とで=馬韓のことか?)分割しようとしたが通訳がうまく行かず、臣智(辰韓の?)は激し韓(馬韓?)も忿り帶方郡を攻撃、軍営も襲われた。時に太守弓遵と樂浪太守劉茂はこれを兵伐しようとし遵は戦死したが、二郡は遂に韓を滅ぼした。
QT其俗少綱紀,國邑雖有主帥,邑落雜居,不能善相制御。無跪拜之禮。居處作草屋土室,形如冢,其戶在上,舉家共在中,無長幼男女之別。其葬有棺無槨,不知乘牛馬,牛馬盡於送死。以瓔珠為財寶,或以綴衣為飾,或以縣頸垂耳,不以金銀錦繡為珍。其人性彊勇,魁頭露紒,如炅兵,衣布袍,足履革蹻蹋。其國中有所為及官家使築城郭,諸年少勇健者,皆鑿脊皮,以大繩貫之,又以丈許木鍤之,通日嚾呼作力,不以為痛,旣以勸作,且以為健。常以五月下種訖,祭鬼神,群聚歌舞,飲酒晝夜無休。其舞,數十人俱起相隨,踏地低昂,手足相應,節奏有似鐸舞。十月農功畢,亦復如之。信鬼神,國邑各立一人主祭天神,名之天君。又諸國各有別邑。名之為蘇塗。立大木,縣鈴鼓,事鬼神。諸亡逃至其中,皆不還之,好作賊。其立蘇塗之義,有似浮屠,而所行善惡有異。其北方近郡諸國差曉禮俗,其遠處直如囚徒奴婢相聚。無他珍寶。禽獸草木略與中國同。出大栗,大如梨。又出細尾雞,其尾皆長五尺餘。其男子時時有文身。又有州胡在馬韓之西海中大島上,其人差短小,言語不與韓同,皆髠頭如鮮卑,但衣韋,好養牛及豬。其衣有上無下,略如裸勢。乘船往來,巿買韓中。UNQT
【試訳】韓の風俗は綱紀少なく,國邑に主帥あれども邑落は雜居し、善く制御できない。跪拜の禮はない。居處は草屋土室を作るがその形は盛り土墓のようで上部の戸から出入りする。みな同居するが長幼男女の別はない。埋葬は有棺無槨。牛馬に乗ることを知らず,牛馬は親の葬儀?時に殺す?。貴石真珠を財寶とし衣につけ飾りあるいは首飾り耳飾りにする。金銀錦繡は珍重しない。その人性は彊勇,無帽無冠で結い髪を露出するから兵士のようで、長い布の衣で革履で歩く。役務や官家が城郭を築くとき,年少勇健者は皆上半身裸で?木の構造物に大繩をかけて?通日ああと声掛けしながら労働する、痛いともいわず勤勉で壮健だ。毎年五月に種まきし訖ると鬼神を祭り群聚歌舞し飲酒晝夜休まず。その舞は數十人で相隨い,地を踏み体を上下し手足相應じ,節を奏で鐸舞(漢代舞曲名、舞人持鐸随曲而舞)に似ている。十月農功が畢るとまた同じようにする。鬼神を信じ國邑ごとに各一人を立て天神を主祭する、名づけて「天君」という。また諸國はおのおの「蘇塗」という別邑をもち大木を立て鈴を縣け鼓し鬼神に事える。逃亡者がそこに逃げ込めば皆帰還する必要はない。これが賊を作っている面がある。「蘇塗」を設けるのは仏教(の駆け込み寺?)に似るが善し惡しだ。韓の北方は(楽浪帯方)郡に近いほど禮俗はよくなるが,遠いところは直に囚徒奴婢相聚まる如しだ。珍寶というほどのものはない。禽獸草木はほぼ中國と同じ。梨のように大きい栗がある。又細尾雞(尾長鶏)がいてその尾は長五尺餘(1.2mほど)。その男子は時時文身(入れ墨)している。又馬韓の西海中に大島(済州島?)あり州胡という。その人はやや短小,言語は韓と違う,皆髠頭で鮮卑のようだが、韋(なめし皮)を衣し好んで牛と豬を養う。衣類は上があって下はない,だからほぼ裸だ。船に乘って往來し韓中と交易する。
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辰韓傳
QT辰韓在馬韓之東,其耆老傳世,自言古之亡人避秦役來適韓國,馬韓割其東界地與之。有城柵。其言語不與馬韓同,名國為邦,弓為弧,賊為寇,行酒為行觴。相呼皆為徒,有似秦人,非但燕、齊之名物也。名樂浪人為阿殘;東方人名我為阿,謂樂浪人本其殘餘人。今有名之為秦韓者。始有六國,稍分為十二國。UNQT
【試訳】「辰韓」は馬韓の東,その古老が言い伝えとして自ら言うには、古え秦の兵役労役から逃げて韓國に亡命した人々が,馬韓からその東界の地を与えられて住み着いたのだと。城柵あり。その言語は「馬韓」と違い,國を邦,弓を弧,賊を寇,行酒を行觴、お互いを呼んで皆な徒というように,秦人に似ている,たしかに燕や齊の言い方とは違う。樂浪人を阿殘という;東方人は我を阿というから,樂浪人のことをもとは東の殘餘人といっていることになる。今も辰韓を秦韓という者もいる。始め六國だったのが少し分かれて今は十二國だ。
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弁辰傳
QT弁辰亦十二國,又有諸小別邑,各有渠帥,大者名臣智,其次有險側,次有樊濊,次有殺奚,次有邑借。有已柢國、不斯國、弁辰彌離彌凍國、弁辰接塗國、勤耆國、難彌離彌凍國、弁辰古資彌凍國、弁辰古淳是國、冉奚國、弁辰半路國、弁樂奴國、軍彌國、弁軍彌國、弁辰彌烏邪馬國、如湛國、弁辰甘路國、戶路國、州鮮國、馬延國、弁辰狗邪國、弁辰走漕馬國、弁辰安邪國、弁辰瀆盧國、斯盧國、優中國。弁、辰韓合二十四國,大國四五千家,小國六七百家,總四五萬戶。其十二國屬辰王。辰王常用馬韓人作之,世世相繼。辰王不得自立為王。《魏略曰:明其為流移之人,故為馬韓所制。》UNQT
【試訳】「弁辰」も十二國,(馬韓と)同様に諸国は小別邑(蘇塗のこと?)をもつ,各に渠帥がいて,大きいのを臣智,次に險側,次に樊濊,次に殺奚,次に邑借と仕訳がある。・・国名あり、略・・弁辰と辰韓合わせて二十四國,大國四五千家,小國六七百家,總四~五萬戶。この(うち辰韓の)十二國は辰王に属す。辰王は常に馬韓人がなり、世世相繼するが辰王は王として自立しているわけではない。《魏略曰く:(辰韓は)中国からの流入者(馬韓によって亡命を認められ)からなっているのは明らかだ。よって馬韓が制するところなのだ。》
QT土地肥美,宜種五糓及稻,曉蠶桑,作縑布,乘駕牛馬。嫁娶禮俗,男女有別。以大鳥羽送死,其意欲使死者飛揚。《魏略曰:其國作屋,橫累木為之,有似牢獄也。》國出鐵,韓、濊、倭皆從取之。諸巿買皆用鐵,如中國用錢,又以供給二郡。俗喜歌舞飲酒。有瑟,其形似筑,彈之亦有音曲。兒生,便以石厭其頭,欲其褊。今辰韓人皆褊頭。男女近倭,亦文身。便步戰,兵仗與馬韓同。其俗,行者相逢,皆住讓路。弁辰與辰韓雜居,亦有城郭。衣服居處與辰韓同。言語法俗相似,祠祭鬼神有異,施竈皆在戶西。其瀆盧國與倭接界。十二國亦有王,其人形皆大。衣服絜清,長髮。亦作廣幅細布。法俗特嚴峻。UNQT
【試訳】土地は肥美,五糓および稻が宜しくできる。養蚕に通暁し絹布を作る。牛馬に乘駕する。嫁娶に禮あり,男女の別もある。葬儀に大きな鳥の羽を用いるが、これは死者の飛揚を意欲するものだ。《魏略曰:その國の家屋たるや,木を橫累して作る、牢獄に似たようなものだ》。弁辰國は鐵を産出する,韓・濊・倭皆從ってこれを取る。交易には皆鐵を用いる、中國で銭を用いるのと同じだ。鉄は(楽浪帯方)二郡にも供給される。歌舞飲酒を喜ぶ。瑟がある、形は筑ににている、これを彈く音曲もある。兒が生れるとその頭を石で圧迫する、扁平な頭を欲するからだ、今辰韓人は皆扁平な頭だ。男女は倭に近く刺青する。步戰を得意として兵仗は馬韓と同じ。その風俗は行く者相逢えば皆止まり道を讓る。弁辰と辰韓は雜居,また城郭あり。衣服居處も辰韓と同。言語法俗も相似ているが,祠祭鬼神は異なる,竈は家の西側に作る。弁辰瀆盧國が倭との接界。十二國には王あり,その人の形は皆大。衣服は清潔で長髮。また廣幅細密な布も作る。法俗は特に嚴峻だ。
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