百人一首のヘタ歌ウソ歌人

2445B.百人一首のヘタ歌ウソ歌人問題、改稿。

百人一首推理の旅ももう終盤です。残る疑問を片付けましょう。
百人一首には、どうしてヘタ歌やウソ歌人が多いのか。

百人一首の再発見宣伝者たる宗祇の昔から疑問視され「抑々もこの百首の人数のうち、いかめしく(名人)思うもの除かれまたさしたる作者とも見えぬものも入り侍り不審のことにや」云々と。

同じ問題意識で「誰も知らなかった百人一首」吉海直人さん、ちくま文庫、2011年、によれば、
(勅撰集には10首未満の)余り有名でない歌人が百人一首には19人も入っている。⇒天智、持統、猿丸、仲麻呂、喜撰、蝉丸、陽成院、源融、文屋康秀、春道列樹、文屋朝康、右近、源等、儀同三司母、小式部、道雅、三条院、源兼晶、別当、

作者の疑わしい歌が12首もある。⇒天智、人麿、猿丸、家持、仲麻呂、伊勢大輔、兼輔、重之、能宣、赤染、小式部、

名歌人でもっといい歌は他にある⇒人麿、赤人、家持、業平、貫之、小町、敏行、遍昭、伊勢、素性、道真、兼輔、宗于、忠岑、是則、友則、公任、和泉、俊成、西行、後鳥羽ら2~30名はあげられそう。

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定家百人一首にはどうしてウソ歌人やヘタ歌が多いのか?もう、答えは簡単。ここまで見てきた通り、百人一首は、バラバラ百人の秀歌集などでなく、番いやグルーピングを活用し全体として主張・流れがある定家独自の作品。時代順かと思われる今の順番でみるとわけが分からないウソ歌人やヘタ歌が多いが、本来の百人一首(3種の百人一首物語、前記事3本)に戻してみると明らかな通り、その場所にその歌人のその歌が必要だったから、ウソ歌人やヘタ歌も平気で採用したということです。

以下、既述とダブりもありますが、参考まで代表的なところ書いておきます。

#1天智:ここは大事なので繰り返しますが、天智作という「#1秋の田のかりほの庵の苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ(後撰302)」は、万葉集の恐らく働けど我が暮らし楽にならずという貧窮農民歌「秋田苅る借廬(かりほ)を作り吾が居れば衣手寒し露ぞ置きにける」を誰かが改作して、天皇が田に臨みかつその露を恩寵の象徴と読ませるべく、後撰集(950年頃)に採り、天皇のあるべき姿、として公布宣伝した。定家はこの延長線上でその歴史政治的主張のために、天智のアヤシゲな歌を率先して取り上げた。この歌も百人一首で天皇の歌として有名になったのが実態でしょう。

#99後鳥羽:ウソ歌人天智とは反対に、後鳥羽は定家当時も後鳥羽歌壇と呼ばれるほど和歌の名手。#99「人もをし人も恨(うら)めしあぢきなく 世を思ふ故(ゆゑ)にもの思ふ身は(続後撰1199)」でなくとも、もっといい歌はいっぱいある。しかし定家は、隠岐で流刑の後鳥羽の、人の好悪、悔しい、若干は反省、の姿を思わせたいわけで、この歌しかなかった。

#3人麿:「#3足引きの山鳥の尾のしだり尾の長長し夜をひとりかも寝む(拾遺778)」も万葉作者不明の「足日木乃 山鳥之尾乃 四垂尾乃 長永夜乎 一鴨将宿(万11-2602S)」が本歌で人麿作ではない。歌の神様ですから他にいい歌があるのに敢えてアヤシイこの歌をとった。既述通り、#92良経の一人寝の歌と番って、人の孤独をいいそして後鳥羽も隠岐で一人寝されて寂しいはずと誘導していく意味もある。

#5猿丸は実態不明の歌の神様
百人一首で猿丸作という「#5奥山にもみぢ踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋はかなしき(古今215)」も読み人知らず。定家の父俊成の「#83世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる(千載)」と番って、歌の道(あるいは人の道、政治の道)を語っているとよみました。一門への遺言との文脈で見ると、当時顕輔以下六条家や後鳥羽院は「人麻呂影供」を結束強化の為に使っており、対抗して猿丸を神聖視していくのは俊成や定家ら御子左家。後鳥羽院は猿丸が歌の神様というキャンペーンを信じていなかった節はあるが(「時代不同歌合」では猿丸を取り上げていない)、御子左家にとっては猿丸と俊成を並べてわが一門の神様なんだと為家や弟子たちに伝えたかったのかもしれません。

#13陽成院は、強烈な愛の歌で百人一首冒頭で恋愛至上主義や男女再会(後鳥羽還御再会)を語ってもらう役割です。「#13 筑波嶺の峰より落つる男女(みなの)川 恋ぞ積りて淵となりぬる(後撰771)」陽成院、「#77 瀬を早み岩にせかるる滝川の割れても末に逢はむとぞ思ふ(詞花229)」崇徳院(以下)と番う。なら何故歌人でもない陽成院なのか?
ここは、陽成院(868-949年)が基経によって意に反して退位させられ(884年)基経が大政を委され日本史上初の関白に就任したから。意に反して前例なく臣下に退位を強いられる点で後鳥羽院を彷彿させます。また退位後は愛に生き随分長生きされたことは、後鳥羽の今後をそう期待しての定家の思いもあるかもしれません。更に(基経のネガティブキャンペーンかもしれませんが)陽成院は乱暴者で、その後皇統は二度と再び陽成院系には戻らず、陽成院は源氏武家の祖先の一人です。何やかや因縁めいたものを感じ、定家的にはここは陽成院でなけねばならなかった・・。

#14河原左大臣(源融)も歌人とはいえない。河原左大臣源融(822ー895年)は嵯峨天皇皇子、臣籍に下ったが上記陽成退位時には基経に対抗し自ら天皇になるともいったらしい。今の渉成園近くが源融の六条河原院で塩釜の風景を庭に取り入れるなど豪奢を極め、また融は源氏物語のモデルの一人ともいう。「#14 陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れむと思ふ我ならなくに(古今724)」は東国の恋あるいは東国鎌倉故に惑う(京都)との文脈で定家には必要な歌だった、まして源氏姓の歌ならなおふさわしい。ここも、陽成院にせよ源融にせよ、その歌の内容とその人が百人一首ストーリー上欲しかった、歌人としてよりは、源氏のご先祖で東国関連で、が定家の思い、でしょう。

#68三条院(976-1017年)は紫式部清少納言の時代、一条天皇のあと即位、しかし彰子腹の皇子を立てたいとの道長の意向で在位5年で退位し翌年亡くなります。「#68 心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな(後拾遺860)」。道長に放擲されたことの嘆きと読むのが普通ですが、「百人秀歌」では一条院皇后定子に死に遅れたと読ませたかったのかも、と想像しました。詞書や通説から離れて自由に読むことで、3種の百人一首それぞれに醍醐味を味わえるわけです。

#77崇徳院(1119-1164年)、鳥羽天皇第一皇子とも白河院の子とも。5才で即位するが22才の時、鳥羽上皇の命で異母弟の近衛天皇に譲位。近衛死後に即位した同母弟の後白河天皇らに保元の乱で敗れて讃岐に配流され同地で崩御した。天皇怨霊の代表格。百人一首の歌は、愛の歌とも再会の歌とも怨霊の歌とも言えそうな「#77 瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ(詞花229)」。後鳥羽の物語には欠かせないとの定家思いでしょう。

#12遍昭 (816-890)「 #12 天つ風雲の通ひ路吹き閉ぢよ乙女の姿暫し留めむ(古今872)」は好みもありましょうが、坊主のヘンな歌、です。遍昭は桓武の孫で素性の父。良岑宗貞。仁明天皇に可愛がられ若くして蔵人頭(秘書長)に取立てられそういう日々の宮中五節の舞姫をみて詠んだのが百人一首の歌という。女歌も得意だったようで百人一首の子の素性の歌そっくりの 《今来むと言ひて別れし朝(あした)より思ひくらしのねをのみぞなく》(古今771)(すぐに戻ると言って出掛けた朝から毎日思い暮らしヒグラシの鳴く声のように望みなく鳴いている。)また小野小町との相聞も伝わり、大和石上寺に参詣した際遍昭が近くにいることを知り「こころみむ」と《岩のうへに旅寝をすればいとさむし苔の衣を我にかさなむ》と遣った所、返し《世をそむく苔の衣はただ一重かさねばうとしいざふたり寝む》(後撰1196)(世捨て人の僧衣は一枚しかない、かと言って貸さないのも冷淡、さあ一緒に二人で寝ましょう)と大和物語にもある。遍昭の最も有名な歌は《すゑの露もとのしづくや世の中のおくれさきだつためしなるらむ》(新古757)(葉先の露、葉元の滴、世の中順番というが、死に遅れる、先立つ、といっても、こんな程度だろう)でしょうか?坊主らしい無常のいい歌です。まあ遍昭一人を見ても歌は多種多様で、百人一首の世界の歌の大部分はカバーできそう、な印象さえあります。

こんな中から、定家は、天つ風、というやや変な歌を選んだ。何故か?rac仮説では「#81実定ホトトギス鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる」と番うことで、人生における瞬間美を表現するという、遍昭もどこまで意識していたかわからない、新しい視点、を提供した。北斎の大波の端のしぶきに通じる。だから、定家は、遍昭の多くの秀歌から、天つ風、を採った。ここはホトトギスと番いかつ瞬間美の仮説があって始めて、定家の意図に得心がいく。あくまで仮説ですが、この辺が定家の心だ、と強い自信を持ちます。

(つづく)

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