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#275 人事評価で情意評価がなくならない構造 24/11/29

こんにちは。
今日は、前回に続き、評価する、を考えます。

(実例を基に編集しています)
評価者となる人は、およそ誰もが意欲やがんばりに対して、高評価をしてしまった経験があるのではないかと想像します。一部を除いては、おそらく多くの評価者となる上長は、できることなら、全員を昇給する評価にしたいと考えているのではないかと思います。

一方、人事部門や経営陣の経営管理の視点からは、メリハリの効いた評価、適切かつ厳格に人件費・労務費をコントロールすることを期待している視点もあります。特に、メリハリは、一般にもよく言われる評価運用の観点です。

ところで、メリハリとはもう少し解像度を上げるとどんなことなのでしょうか。それは、資源分配に他ならない、と考えます。評価との関連でいえば、給与改定原資(昇給原資)を、誰に・どれだけ、どの事業部門に・どれだけ、分配するか、です。もっといえばどこに投資するかです。課長や部長など上長個人からすれば、メンバーのポートフォリオの誰に、いくらを、経営層や事業責任者からすれば、事業ポートフォリオの中のどの事業に、どれだけ、投資・資源配分するか、を決めることです。

ですが、冒頭のとおり、多くの評価者たるミドルマネージャーは、みんなを等しく報いてあげたい、と葛藤を抱えることになります。感情労働たる1つの代表的なミドルマネージャーのタスクです。

それを合理的に、合法的に割り切るための1つの方策として、目標管理のしくみがあります。メンバー自身が主体となって目標を決め、それが達成できた・できなかったを目標達成基準に基づきジャッジすればよいので、心的負担は多少緩和される理屈にはなります。しかしながら、そう上手くは機能しないことが多いのではないでしょうか。

そうです。目標を設定すること、到達基準をクリアにすること、このハードルが立ちはだかるからです。この目標の適切さや妥当性、さらにはその達成基準をメンバーや上長の自分が決めること、これが難しいのです。

その結果、目標やその達成基準は、○○を改善する、推進する、活用する、企画する、向上する、人を巻き込む、考えるなど、極めてあいまいな目標ならぬ目標、かつ達成基準は後で何とでもいえるものに着地してしまうことが非常に多く見られます。

では、売上や利益、品質上のKGI・KPIなど定量で測ることのできるものにすべてを置き換えてしまえばよいと考えるのが人の性です。これは悪くないですし、いわゆるSMART目標のフレームです。この定量数字目標は、単なる上から落とされたノルマになることが非常にネックポイントです。成果と割り切ってしまえば、それは1つの合理的判断です。

が、人は与えられたノルマだけではなかなか自発的に駆動できません。ですから、ノルマを機能させるには何か意味づけをすることがキモ中のキモです。その目標を達成することが、どんな意味を持つのか、誰の・どんなことに役に立つのか、その数字が顧客やその先の社会課題に対して、どう意味づけできるのか、考えて合意することです。強引な解釈とも取れますが、この意味合いの共有こそが、マネージメントのレバレッジポイントとも考えます。

さて、話がだいぶ大きく膨れてしまいました。元に戻していくと、こうした評価とその評価を恣意的でなくするための目標管理、これらのしくみがそもそも意図するほどには機能しない、難しいシステムになっていると考えます。ですから、なんとか程よい程度の目標と、程よい程度に原資の再分配を行なうことで評価と昇給インセンティブのシステムが回っている側面があります。

そうなると、評価のフェーズでは、長時間労働に文句を言わずに応えてくれた、上長たる自分の無茶ぶりによく応えてくれた、トラブルが起きた際に粘り強く対処してくれた、など、体を張ってがんばってくれたこと、その精神性を評価してしまうバイアスが働きます。上長たる評価者は、そんなバイアスをほとんどの人が否定します。「正当に評価している。現に成果が出ている」と抗弁します。それは、ムリの上に成り立った成果です。

そして、そのような働き方をしてくれるメンバーは、大抵の場合、物理的にも心理的にも、評価者たる自分の近くにいます。ですから、余計に評価バイアスがかかり、高い評価をしてしまいがちです。

これが、がんばった評価、情意評価がなくならない構造だと考えます。
もちろんもっと俯瞰してみれば、日本的な人事管理制度、慣習・規範にも至ります。ですが、ここでは、もう少し近接的な要因を考察してみました。

それでは、また。

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