波動が低いのではなく、冷静で慎重なだけ
「波動」なんていかにもスピリチュアルな言葉を使ってしまってドキドキしていますが、言葉の力を信じてあえてこれでいってみます笑。
自分は内に篭りやすい性質ゆえ、”自己解放”的なことがしばらく精神的成長のテーマになっているのですが、その方法(スピリチュアルに限らず)を学ぶ際に自らの思い切りの悪さを嫌というほど感じてしまうことが度々あります。
「波動が低い(のではないか?と思ってしまう)」と表現したのは、この意味です。
ちなみに私はスピリチュアルにそこまで詳しくなく、ここでの「波動」とは、やんわりとした「良い感じ」「解放のエネルギー」「信じる力」「思考を行動に繋げる力」みたいなものと思っていただけたら幸いです。
そういうものが周りと比べて自分には足りていないんではないかと悩んでいた時期があります。というか今でも時々そういう不安に出くわします。
慎重な性格ゆえ、インプットは十分すぎるほどします。でもそれをなかなか行動に繋げられない、学んだ瞬間は感動に包まれても、またすぐ日常に戻ってしまう自分に「なんかこれじゃダメじゃない?」なんて思ってしまうんです。
そもそも何かを学んだ際、学んだその場や人から一旦離れ、「我に返る」的な時間が、実際の行動に移す前に必要だったりします。
私にはもともとこのような慎重な性質があるのですが、学生を卒業して社会人になる、という時期に一旦この性質を捨てました。
そうでないと、自分は腰が重すぎて社会人として周りから認められないのではないかという不安があったんです。
そんな私の社会人1年目の上からの評価は「フットワーク軽い」「メンタルタフ」…今思うといやいや何言ってんのwて感じですが、そういう精神の求められる環境の職場で、本当にそう見えるように自分を演じていたんだと思います。表面的な部分だけでなく、気付かぬうちに心から自分を洗脳して。そしてそれが自分には合わなかったのか、心身の体調を崩して退職してしました。
どうしてそうなってしまったかというと皮肉な話ですが、もともと心配性で慎重すぎる性格から「就活は余裕を持って終わらせたい」と考えたが故に、就活時期に規定の選考開始時期に先駆けて選考を開始していたベンチャー企業ばかり見て、そういった気質の企業の思想に洗脳されていった…というのが、今思うとあります笑。
特に「考えるより先にとにかく行動しろ」という啓発の言葉は私の頭には強迫観念と言ってもいいほどこびりついていました。
当時の私は、周りから見ると「波動が高い」にも見える状態だったとも思います。受け取った意識の高い言葉を次々と目に見える行動に移していく。とにかく飲み込む。信じる。やる。やる。やる…といい意味での緊張感を持ち合わせていたと思います。
でも、体調を崩してしまったということは、心や体のどこかが「待って。」「もう少し時間が欲しいよ。」「怖いよ。」と叫んでいたんではないかと思います。
この経験を経て、私は次第に自分の本来の性質である慎重さを取り戻していきました。
そして今、改めて慎重さは自分の強みでもあるのではないかと思っています。
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私にとって、慎重さを保つためには、先ほど言った「我に返る」的な時間が、学びを行動に移す前に必要です。
「我に返る」とは具体的に何をすることかというと、私にとっては以下のようなことだと捉えています。
・自分の力で別の角度からもう一度そのテーマに近づく
・調査をしてある程度の数のデータを集める
・↑をした後、一呼吸おいてひとりになってじっくり考える
・もしくは一旦忘れて別のことをしながら、自然と納得感を得られる瞬間を待つ
特に最後の行が重要で、何か新しい知識の発見があった際、それが自分の納得感(「腹落ちする」という言葉がありますが実際に身体的感覚を伴って現れることもあります)に繋がるペースには個人差があると思っています。
私の場合、時には想像もしなかったほどの時間をかけて、本当に忘れてしまった時にふと自分の手の中に落ちてくる感覚を得ることもあります。
だからよく、レクチャー中には「うん、うん…!」と素直に自分の中に取り入れているように見えて、直後にしれっとした態度でその場を離れてしまう、なんてことがあります。レクチャーしてくださった方には「あれっ…なんで??」と思われてしまったかもしれません。
しかもしれっと帰ってしまった後に自分でまた調べなおしている…このことが知られたら、「なんて懐疑的な人なんだ」と思われてしまうかもしれません。
でも私にとってはせっかくレクチャーいただいたことをしっかりと自分のものにするための、大切な行程なのです。
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慎重さと一緒に持ち合わせておきたいものがあります。それは冷静さです。
自分が落ち着いていて、心が整っている状態で慎重さを発揮できる時。それはいちばん自分の性質を発揮できる時なのではないかと思います。
慎重さと冷静さ、何が違うの?と思われるかもしれません。
実は冷静さを欠いた慎重さ というのも存在します。
冷静さを欠いた慎重さとは、何かにとらわれているがために過度に慎重になっている状態のことです。過度なべき思考、トラウマ、周囲の目に振り回されるなどして、慎重さが生まれている状態です。これは、とても冷静とは言えないと思います。
例えば、自己解放をテーマとしたレクチャーの会か何かで、周りがどんどん自己を解放しているように見えるのに、自分だけそんな素振りを見せられない、だからちょっと自分のキャラを変えちゃおう…!とするのは、慎重さすら欠いているように見えますが、これは冷静さを欠いた慎重さと言えると思います。周囲の目に振り回されて、自分の見せ方に過度に慎重になっている状態ですね。
ただ、これを自分で見極めることはとても大変なことだとも思います。自分の行動のみならず、掴み所なく過ぎ去ろうとする頭の中の考えにまで「それは本当に必要か?」と声をかけていく必要があるからです。
そして、そもそも今直面しているのが「過度な慎重さ」なのか、それとも正しい「冷静さ」なのかを見極め、自分にとっての正解を導き出すには、ある程度の経験や知識が必要になります。単純にその場の気持ちに従ったりと短時間で簡単にできるものではありません。
しかしこれを根気強く行っていくことが本当の冷静さだと、私は思います。
このことから、自分の強みである慎重さを持ちながら自己解放をしていく、というのはとても難易度の高いことであると言えます。
だけど自分の場合は本来の性質がそうなので、やるしかないんですよね。
少し厳しい表現になってしまった気がしますが、根気強く行っていくということは、本当の意味で自分を救うということにもなると思います。
そういう意味で、自分を救うために使われる慎重さは、波動が低い(=人を信じられない、行動力がない、エネルギーがない)とは言えないと思います。
エネルギーという言葉を使わせてもらうと、むしろ内的なエネルギーを自分の中でむくむくと成長させている(そしてそれがのちに花開き、本当の意味で高い波動となる)状態を作り出しているのが冷静な慎重さ、と言えるのではないかと思います。
いただいたプラスのエネルギーを、すぐにはあなたに、世界に、お返しできないかもしれません。
でも、待っていてください。急かさず、ペースを尊重してくだされば、いずれ必ずプラスの何かをお返しできるはずです。
語ってますけど、自分もまだまだ旅の途中です笑
もし共感してくださった方がいたら、一緒に頑張りましょう🐘