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「序列をつけたがる性質のオタクとテクスト論の相性が悪い」から始まる雑談

ふとした瞬間に私にも『他より「分かっている奴」でありたい』という欲求が顔を出すことがある。こういった欲求はオタクの、或いは私がファッションオタクなだけかもしれないが、ともかくこういう層は少なくない数いるのだと思う。こういった人種は得てして作品を分析し、解体し、深読みしたがる(深読みしている人のすべてがそうだ、ないし私自身そういう動機だけで深読みしているというニュアンスではない)。こういった需要にはどうやらアニメーション技術のテクニック、或いは制作裏話といったものがかなり刺さるようなのだが、テクスト論的には作者が誰と誰の人間関係をモチーフに描いたなどという情報ははっきり言って関係がない。作品に出現する要素の象徴性を「作者の考え」にまで引っ張るのはナンセンスだ。一応補足するが、表現である以上はモチーフの背景足る素養は解釈を助け、作品をより重厚に見せる効果がある。絵画や演劇と同じだ。

同じ内容でなくともこの手の話は何にでもついて回る。歌だってそうだ。「作曲者の曲」と「歌手」という関係はとっくに終わりを迎え、「歌手の持ち歌」になる。或いはhip hopは『「何を」より「誰が」』という話もあるそうで、一種別構造を取っている。ではPopsはどうなのかと言われれば、「生歌が上手いやつは凄い」風潮はあり、なにか曲持ち歌手としてのステータスのように思われている節がある。確かに我々が感動しているのは曲そのもので、それは「心地よいものを見聞きして幸せになる」というアートの性質なのだが、同時に「人間の能力を活かした姿を見て感動する」というアスリートの性質を併せ持っている。属人性と言い換えても良い。

実は個人的に「必ずしも自分で歌わない”ボカロP”」という存在が既存のアーティストのアスリート性を表出させるのではないかと思っていた時期もあったのだが、結局そんなことはなかった。アイドル歌手と実力派を呼び分ける動きもあったが、少なくともこの切り口において本質的な差はなかったし、「歌唱王」のボカロ曲紹介テロップは物議を醸したが、例えば『「”初音ミクという歌姫”というコンテンツ」だからボーカロイドは楽器であるという見方は妥当だが、同時に「ボカロ曲が”歌”として存在し得ているのは初音ミクが”歌姫”だから」という論理も働いている。ということはやはり製作者ははそれをバックアップする”プロデューサー”であって、構造上名前は出せない』などという話はどこからも出なかった。ボーカロイドは歌文化の特異点たり得なかったのだ。

ところが、というか「ところで」、ファイブスター物語や型月などに影響を受けたような『膨大な世界から「切り取って」描写する』ような作風では作者を神に仕立てることができる。これは満たしている需要の母体が既存の小説やアニメと明らかに異なるわけだが、このあたりは東浩紀氏周りの方々がよっぽど有益な話をされているので詳述はしない。ただ、別の路線の話として、このあたりは寧ろ”聖書”っぽいという話はある。那須きのこ的なのはカトリックだし、テクスト論的なのはプロテスタントなのである。

もう一点、型月は「テクストの揺らぎを前提としないが故に絶対解があり、テクスト的な楽しみを許容しない」という非文学性(あくまで既存の、という意味)を持つ可能性は興味深い。これはコンテンツ性という括りでの発想だが、文学的な話をすれば「作者が伝えたいイメージを最大限読者の脳内に引き出せるように書く」という観点は作者論的だろうとテクスト論的だろうと同じな訳で、2者の違いが「受け手」のスタンスであることを鑑みるに「楽しまれ方」に制限がかかるという話にも思える。総括するに、作者が「意図したイメージを受け手の頭に作ろうとする」という前提においては、作者本人が「テクストの揺らぎ」を前提にした作品を作ることはありえないが、受け手側の意識として、「作者を最上流に置いた鑑賞」から「作品を最上流に置いた鑑賞」への変化が存在した(絶対性の否定)。一方現実には、楽しみ方として、テクスト論に逆行することを良しとし、「作品より上流の絶対性」を求める作品が存在する(型月など)。型月作品は他作品と変わらずテクストの揺れを許容する。しかし、シリーズの構造上一部解釈の『答え合わせ』が起こってしまうことから、受け手としては想像のプロセスが限定されているように感じ、絶対性に面白さを感じる方向にシフトする可能性がある。これはそもそもの需要層上、単に序列のつきやすい絶対性に故意に流れた可能性もあるので、一概に断定するのは危険だろう。

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