「AIイラスト」と商業性と推しの話
最近AIイラストの件で各SNSプラットフォームが様々な立場を表明し、てんでバラバラなのは非常に宜しいと思っている限りなのだが、サブカルチャーオタクアンチのスタンスを持つ方は兎も角として、オタクがお互い無意識にクロスカウンターを狙っている構図が多い気がしたので、今までの言説を延長する形で現段階での所感を述べておこうと思う。
前もって分けておくが、「AIが描いた絵に感動するか」という問題は、以前にも書いたアスリート性という観点から説明できるので省略する。詳しくは大坂なおみ選手の話でも初音ミクの話でも見て欲しい。
また、著作権の問題には当然課題がある。今回話題のAIが登場する前からその手のセッションでは毎度議題にあがって先生が呼ばれるような話題であった。
しかし、言い方は悪いがそんな問題だけで過熱するほど日本市場は敏感な印象はない。AIに限らずそんな話は本国ではいくらでも転がっている。
ここで、今回のAIの話題がオタクを2分している事実について、一つ検討ポイントを作りたい。
それは『AIファンアートの登場は「ファンのためのFA」と「推しのためのFA」という区分を明確にした』という点だ。
例えばV界隈で一般的なスタンスとして、推しは「FAの労力を受け取」っていて、ファンは「他人のFA作品を受け取」っているというものがある。
それ以前でも、コミックマーケットに代表される同人誌即売会のようなイベントは、時代を経る毎に純ファンダム的な側面と、2次供給的な側面の二面性が見られる。
これが例えば特撮→CG時代において、特撮屋さんの中ではCG屋さんに反発もあったものの、最終的には使える表現を使う方向性で決着したという事象として日本特撮技術大全などで読まれている。
特撮が今回の例と異なる部分は、特撮がある種シンプルな商業性によって支えられていたという点にある。
しかし、今回話題になっている「イラストレーション」という活動は余りに多面的だ。前述した視点だけで見ても、「イラスト」と単純化して意見することがダブルスタンダードのようになってしまう危険性をはらむ行為だと認識していただけると思う。
今まで意識して分類する必要のなかったものを分類しなければならない…
「技能が細分化され、ノーマライズされ、単一技能だけで勝負し、評価されることが可能な世の中もまた、幸せ」なのかもしれず、ルッキズムやフェミニズムにも通ずる。メディア特性の際も触れたが、選択肢を得て授かる気づきのなんと多いことだろうか。
余談だが、ボカロPやVTuberなど、「名前出せば自身のやってきた功績について語れても、そのコンテンツ性を担保できなくなるからできない」ような人が就活とかクレカ発行とかで不利にならないAI産ブラックボックスプラットフォームには需要があるかもしれない。