ADHDによるマラソン大会
こんばんは、よしのです。
注:ADHDには様々なタイプがいると考えています。これから書くことがADHDを持つ人に当てはまるということではないです。こんなタイプの人間もいる、という観点で読んでみてください。
先日、自分と同じくADHDの疑いのある友人からこんなリンクが送られてきた。
https://anond.hatelabo.jp/20200112130927
「バックレ依存症なので人生がつらい」
という匿名の日記に対してADHDと診断された方から共感できる、というメンション。
以下気になった部分を引用。
だから、実際に成功したか失敗したかよりも、「成功する希望があるか」「成功する可能性があるか」といった期待感を持てるかどうかの方が、本人にとって生きる上でずっとずっと重要なんだ。「成功する可能性」の期待感だけあれば、希望を持って生きられる。「成功する可能性」が生きる希望なので、「成功する可能性」の期待感の喪失を避けることが最優先になる。
うん。
お互いですごく共感した。
このメンションを見て私も思い当たる節がいくつもある。
私は大学のとある必修の授業を落とし続け、留年している。
その授業の期末に行われる授業内のテストに出席すれば、まず落とすことはない、簡単な授業だった。
しかし、落とし続けた。
テストの結果が芳しくなかったわけではない。
そもそもテストの日に出席しなかった。
バックレれば、「バックレなければ成功したかどうか」は誰にも永久にわからない。だから、「成功した可能性」は残る。
まさしく。
「出席していれば、単位が取れたのかもしれない」
という可能性だけを残した。
「留年」を天秤にかけた時、その可能性の方が重かったのだ。
ただ、今になって後悔もしているからお笑いである。
また、こんなことを思い出した。
私が小学校の5年生か6年生の時のマラソン大会の話。
私は習い事で競泳をやっていたので、マラソン等の体力勝負の競技だけは得意だった。
中盤、私は2位にいた。前にはA君がいる。
抜かそうとする
サッカーをやっていたA君は、ボールを渡すまいとするフォワードのように腕を突き出し、体を寄せ、抜かせてくれない
抜かそうとする
遮られる
抜かそうとする
何度かこの攻防を続けていると、もう満足していた。
「あ、A君は自分より体力ないんだ。勝っている。」
結局、私は2位のままゴールした。
母親にブロックされていたこと、それで諦めたことを伝えると、
「それは負け惜しみだ」
一蹴された。
こんなことはよくあった。
大人になるにつれて理解し、
確かに傍から見るとただの負け惜しみだし、
他人の話であれば、私も負け惜しみだと非難するだろう。
だから、他人には言わないようになった。
上の例でいうと、1位にならなかったことによって自分の中だけで
「1位になれたかもしれない」
という希望が残り
「チャレンジしなかったから1位になれたかどうかはわからない」
曖昧になる。
競技に向いていない思考だ。
ADHDの人が全員が全員そうではないだろうが
同じ感覚を持った人はいると思う。
運動は好きだし、人並みの運動神経は持っている。
けれど結局、水泳をやめた後、
部活動でも運動部を選ぶ気がさらさらなくなっていた。
それ以前に、部活動に入りたいと思わなかった。
新しいことには興味があるけれど、始めるのは人一倍足が重い。
チャレンジしないという選択をした。
ただ、これまた後悔しているからお笑いである。