地元から車を10時間走らせ、父が東京に来た。
得体の知れないウイルスが、街を漂うようになってまもない頃、離れて暮らす父から突然連絡が来た。
「お父さん、車で東京行くからな」
行こうと思ってるんだけど、どうかな?というような聞き方をしないところが、あまりにも父らしくて笑ってしまった。
大学最後の年だった。就職先が決まって、あとは何をしてもいい残りの自由時間がぽんと渡された。渡されたのはいいものの、旅行に行ける状況ではないし、まず公共交通機関を使って、この関東圏から出ることすら難しかった。
見えない何かに脅かされることへの不安。
何者かになりたくて、何にもなれないまま、大学最後の年が終わろうとしている。
一体、自分は何がしたくてここにいるのか。
そんなことを考えていたと思う。
「東京まで運転できるか試してみたい」
父は電話越しでそう言ったけれど、長期休みになっても地元に帰れない「わたしたち」を見かねての優しさだったのだろう。
この頃、わたしは大学生の弟と一緒に暮らしていた。
そして、父は何食わぬ顔で本当にやって来た。
マンションの前に父の愛車が停まっている光景は、なんだか不思議だった。
地元にいた時は、東京なんて時空を易々と越えてしまうくらいに別世界だと思っていたのに。ちゃんと道で繋がっていた。
それを父に実感させられるとは思わなかった。
父とわたしは似たものだからだろうか。
それとも単に父と娘だからだろうか。
母との関係に「友だち」という別名をつけることはできても、父とは「親子」という以外に他につけようがなかった。
決して仲が悪いわけではないのだけれど、ふたりきりで過ごすとなると、どんな話題で、どんなふうに会話を進めればいいのかがわからない。
父もわたしも、この組み合わせになるとそれぞれが持つ面白さを十分に引き出せないところがあって、それには母や弟の存在がなくてはならなかった。
そうなってしまったのには、わたしと母の仲が良すぎるというのも少なからずあるのだと思う。弟も「同居」というきっかけを経て、自然と仲は深まっていた。
父との関係だけが取り残されたまま、こうしてずるずると来てしまっているわけだ。
その割には、会話をしなくても、「お父さんこう言ったんでしょ?」「いや、お父さんなら絶対そうするから」という予想に間違いはなかった。母によると、父も同じようにわたしのことを言うのだそう。
そして同じように、いつも見透かされていた。
朝早くに東京を出発した車は、お昼過ぎには半分近くのところまで来ていた。途中、父に代わって運転していた弟は、いつの間にか後部座席で眠ってしまった。
弟が持ってきた手のひらサイズのスピーカーをドリンクホルダーのところへ置いて、ランダムに曲を流す。
父が十何年と乗り続けるこの車には、Bluetoothの接続機能がなかった。新曲が出るたびにCDを購入して、あるいはレンタルして取り込んだミスチルやGReeeeNの曲が、いつも繰り返し流れていた。
昔、好きな曲を入れてあげるからと、レンタルショップに連れて行ってもらったことがある。まだガラケーで、iPodやウォークマンで音楽を聴いていた時代だ。
その時、何のCDを借りたかは忘れてしまった。
次はアレかけてや。
沈黙を遮るように父がリクエストする。
福山雅治の「IT'S ONLY LOVE」だった。
そして、何かのスイッチが入ったみたいに、父は若い頃の話をし始めた。何十年の時間が過ぎても、それをまるで昨日のことみたいに生き生きと話すのは、人類共通なのかもしれない。
昼の眩い光を受けた父の横顔に、どこか「青年」の父を感じた。もちろん写真でしか見たことはないのだけれど。
どこかで見覚えのある姿だった。
母と弟との恋バナに決して入って来ない父が、母と出会った日の話をしてくれたことがある。
あの日はふたりきりで、夜の住宅街を運動がてらに歩いていた。まだわたしが中学生の頃だ。
これが父と恋バナをした最初で最後の日だった。
母の話をする父は、直接的な言葉は言わずとも、恋をしていた青年そのものだった。
そうやって、ある時こっそりと、わたしにだけ教えてくれる話があった。
わたしたちは、こういう距離感でいる方が合っているのかもしれない。
サービスエリアのお土産ショップにいた父が、わたしを手招きするように呼ぶ。
なんだかテンションが上がっている。
父の前には、信玄餅のアイスが一面に並んだ冷凍のショーケースがあった。
これ、お父さんが好きそうなやつだ、と思うと同時に、「これ好きやろ?」と父が言った。
わたしたちはやっぱり似たもの同士だ。
ふたりでショーケースをへばりつくように見ていると、父が「こっち」と声をかける。
店の入り口に、まだ眠たそうな顔をした弟の姿が見えた。
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