No.1『聖なるズー』
犬や馬をパートナーとする動物性愛者「ズー」。
性暴力に苦しんだ経験を持つ著者は、彼らと寝食をともにしながら、
人間にとって愛とは何か、暴力とは何か、考察を重ねる。
そして、戸惑いつつ、希望のかけらを見出していく――。
(集英社HPより)
ズーとは、ズーファイル(動物性愛者)の略称である。彼らは、自分たちのことをズーと呼ぶ。ズーフィリアではなく、ズーファイルだ。そんなことをいきなり言われても、当事者じゃないと違いが分からない。困ったときにおなじみWikipediaで調べてみると、ズーフィリアは「獣姦への性的嗜好」と書かれている。また、ズー・セクシャリズムという項目もあり、「異性愛や同性愛の概念と同様に、動物への性的指向。性的嗜好ではないことに注意」と書かれている。本書『聖なるズー』では、性的嗜好のズーフィリアではなく、性的指向の「ズーファイル」について書かれている。
そもそも、動物性愛に対してどのようなイメージを持っていただろうか。僕は、正直に言うとかなり偏っていた。
まず、動物性愛といってパッと頭に浮かんだのは、恥ずかしながら、バター犬だった。その次に思い浮かんだのは、数年前に何かのネットニュースで目にした「ヤマアラシとセックスすると性器に傷がつくから、フロリダではヤマアラシとのセックス禁止法がある」という真偽不明のニュースだった。これじゃああまりにも乏しすぎるので、もう少し深く考えてみる。が、やはり動物を性的対象としたことがない人間には難しい話で、嫌がる動物に無理やり性器を挿入しているイメージはなんとなく持ってしまう。また、考え方として、動物性愛者は自分を性的倒錯者だと認識しているというイメージがあった。
これらの僕が持つイメージは、結果的に言うと、本書でことごとく否定されていくことになった。
先のWikipediaでも少し触れたが、嫌がる動物に無理やりというのは、獣姦を好むズーフィリアのやり方であり、それはズーではなくビースティやズー・サディストと呼ばれるらしい。本書で何度も出てくるが、ズーは動物に己の性を押し付ける事は絶対にしてはいけないという価値観が存在する。動物とのセックスには快感を求めておらず、あくまで愛する動物とパートナーとして対等に接したいという思いが強いそうだ。読んでいてびっくりしたが、中には動物とセックスをしないズーもいた。
また、自分たちを性的倒錯者と認識しているというイメージも、違っていた。先のWikipediaにもあったように、性的倒錯ではなく性的指向なのだという考えが強くあった。
本書では、ドイツのズー団体「ゼータ」の人々を中心に話が進んでいく。あとがきにも書かれているが、本書ではズー全体の中でも「聖なる」ズーの一部分を描いたものでしかなく、これが動物性愛者のすべてだと決めつけることはできない。だが、少なくとも本書に出てくる「聖なる」ズーの人々は、己の快楽を動物に対して欲しているのではなく、動物を恋人や夫婦といった対等なパートナーとして認識しているようであった。
本書を読んでいてすごく面白いなと思ったのが、ズーの世界にも他の性的指向の世界と同じように専門用語があるということだった。
例えば、人間の男性と動物のオスの組み合わせはズー・ゲイ、人間の女性と動物のメスの組み合わせはズー・レズビアンというらしい。相手の動物がどちらの性別でも構わないという人はズー・バイセクシュアル、相手は異性がいいという人はズー・ヘテロというそうだ。人間同士の世界と同じように、好きになる性も人それぞれというわけだ。また、これも人間同士の世界と同じように、いわゆるタチネコというものが存在していて、タチをアクティブ・パート、ネコをパッシブ・パートと呼ばれるらしい。
また、多頭飼いしているズーも数人出てくるのだが、自分が愛している動物の個体は「パートナー」や「妻」「夫」でるのに対し、他の個体は「ペット」である考えが共通としてあることも面白いと思った。人間同士の恋愛でも、「人間なら誰でもいい」わけではないのと同じ感覚であるように見える。
これらのエピソードを読んでいくうちに、やはりズーは変態や性的倒錯のくくりとは違うという言葉に納得できてくるようになる。それが、読んでいて面白かったのと同時にすごく不思議な感覚だった。
いちばん興味深いと思ったのは、ゼータにおけるパッシブ・パートの多さである。やはり、動物に己の性をぶつけてはいけないという考えが強いズーの世界で、言葉による合意が取れないアクティブ・パートはうしろめたさや語りにくさがある。一方で、パッシブ・パートの人々が語る中で「動物がセックスしたがるときは、自分を求めて覆いかぶさってくる」という表現が出てくる。なるほど、アクティブ・パートとは違ってセックスをしたがっているのは動物のほうで、自分がそれを好き好んで受け入れているから、言葉がなくともうしろめたさや語りにくさは薄くなる。
だが、僕はちょっと納得ができなかった。「自分を求めて」という表現が、どうしても引っかかってしまう。それはあくまで人間側の主観でしかないじゃないか、と思ってしまうのだ。犬を始め、あらゆる動物が何かをきっかけに本能的なスイッチが入って性的興奮することはよくある。僕の家ではデグーという、ネズミに少し似た動物を飼っているのだが、デグーは飼い主の手にじゃれついて遊んでいるうちに性的興奮して自慰することがある。これとズーの言う「覆いかぶさってくる」行動と何がどう違うのか、申し訳ないが僕には全く分からなかった。
また、性的興奮した犬を抱えて挿入を誘導したり、自慰を手伝ったりするという話も出てきたが、これは果たして対等なんだろうか。「そうして欲しいと動物が思っている」というのも、あくまで主観でしかない。
だが、ズーであろうとなかろうと、どうあがいても主観でしかないのは仕方がない。人間は犬でも馬でもデグーでもない。気持ちを考えたり、思いやったりすることはできても、完璧に理解することなどはできない。当事者ではない人間がとやかくいう資格などないとはわかっているものの、自分を求めているんだと断言する姿にはどうしても違和感を持ってしまった。
本書では、ペットとしての立ち位置とパートナーとしての立ち位置という話も出てきた。ペットとして飼う人は、動物と自分を親子関係(子として、赤ちゃんのように)として見ており、ズーはパートナー(恋人、夫婦)として見ている、と。ここまで読み進めたとき、ハッとしてページをめくる手が止まった。
よくよく考えてみると、僕はペットのデグーを子とも兄弟とも、パートナーとも思ったことがないことに気づいた。以前、Twitterでふざけ半分に「デグーは彼氏」と言ったことがあるが、それも本心ではない。
嫌いとか、愛情がないというわけでは決してない。大好きだし、愛情は溢れんばかりにある。言葉にするのはすごく難しいが、強いて言うなら、ズーの「対等でいたい」という考えが少し分かる気がする。元来、ペットに対しては常々「我々人間のエゴで一緒に暮らすことになったのだから、敬意を払いたい」という気持ちがある。だからこそ、子や弟妹とように見られないのだと思う。この感覚は、ズーの気持ちに近いのかどうかは自分ではわからない。ただ、少なくともこの気持ちは、本書を読まないと気づけなかったと思う。
あまりにも衝撃的な本だったので、本書を読んでから、様々な人の感想を読んだ。「筆者がズーは愛かもしれないと心を開いていくさまが怖かった」「おぞましい価値観」「負の要素が彼らにほとんど感じられず、リアリティを感じなかった」「LGBTだけでなく、変態までもが声を上げだした」等の否定的な意見もちらほら、いやかなり見受けられた。
正直に言うと、それらの意見にも少し共感できる。僕も含めて多くの人は、動物に対して性愛を感じたことはない。自分と違う性愛に対して、そう簡単に理解を寄せることはなかなかできない。しかし、これらの意見は、『聖なるズー』への意見というよりは、ズーフィリアや性的倒錯者もすべてひっくるめた存在への意見であるようにも思える。
また、「ズーもペドも、同意の取れない相手に何を根拠に対等と言い張るのか」という意見もあった。この意見は、先に書いた「あくまでも主観」という意見に近いと思う。
一応本書では、ペドフィリアのことも触れられている。知らなかったのだが、ズーはこの意見のように、「ズーもペドも」と一緒くたにされることがままあるらしく、それに対して強烈に嫌悪感を抱いていることが記されている。
曰く、「子どもは性が目覚めていないのに性を強要するのは間違っている」「成熟した動物は性が目覚めているから合意が取れる」とのことだが、それでもやはり一緒くたにされるのは、ペット=子ども、というズーでない人々の考えと、動物=パートナー=成熟している、というズーの考えで、認識のズレがあるからだろう。性愛に関する複雑なズレである以上、そう簡単に分かり合うのは難しい。
「この本は性欲無罪・性的嗜好の多様性を認める運動だ」という意見もあった。この意見も、すごく共感できる。
こうやって、動物性愛という、ある意味禁忌とされてきた世界に触れる本が出てきたとなると、他の「性的倒錯」と言われてきた存在も、声を上げていくようになるのだろうか。それとも、そんな考えはズーへの偏見になってしまうだろうか。
アブノーマルな性癖の人たちは、ノーマルなセックスやオナニーでは満足できないという点においてはある意味マイノリティーであると思う。場合によっては犯罪だったり、人から嫌がられたりするものもあるだろう。ズーも、性的倒錯ではないとはいえ、国によっては犯罪だったり、名指しで抗議活動をされたりしている。
もちろん、性的嗜好だからといって人を傷つけていい理由にはならないし、決して犯罪は許されない。だが、その嗜好自体は、変えようと思っても簡単に変えられるものではない。
変態というフィルターを取り払ってみると(そんなことができたら誰も苦労しないのだが)、もしかしたらズーの世界は、それこそセクシュアルマイノリティーの世界のように、深くて複雑なのかもしれない。
「動物とセックスするなんてキモい、理解できない」と思って、そこで引っかかってしまうかもしれないし、僕のように「動物の気持ちなんて人間の主観じゃないか」と立ち止まってしまうかもしれない。だが、本質はきっとそこじゃない。
対等なセックスとは?セックスと性暴力の違いは?性愛の本質は?
この本は、人間の、従来のセックスへの考え方や価値観を、根幹から揺さぶっている本だと思う。かつて性暴力に支配されていた著者の、「改めて考えなおそうよ」という問題提起のように感じた。
良い意見も悪い意見も世の中にたくさんあって、自分の中にもどちらもある。どうなの?と否定的にとらえてしまうところもあれば、なるほどね!と納得できるところもある。そういうのを全部まとめて「性愛ってなんだろう」という根本的なところから揺さぶりをかけている、そういう本だと思った。
No.1 『聖なるズー』
著者:濱野ちひろ/出版:集英社
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