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『映画ドラえもん のび太と空の理想郷』を観た。

永瀬廉くんが声優をやっているということで、ドラえもんの映画を観に行った。

幼女のころはともかく、最近はドラえもんをめっきり観ていないし、過去作も細かいことを忘れてしまっているところもあるので比べようもないけれど、今のドラえもんってかなり強いメッセージを打ち出すんだな、という印象。
冒険活劇の中に描かれる友情、仲間の大切さや、困難に立ち向かう勇気、といったものはかつて幼いながらに感じとっていたとは思うけれど、この作品はもうすこし踏み込んでいて、その仲間の素敵なところはもちろん、ちょっとした欠点も「個性」であり、そのままでいい、そのままがいい、それが素晴らしいと宣言する人間讃歌であり、ひいてはダイバーシティ、インクルーシブな社会にまで言及するような内容だったと思う。これはきっと時代の変化なのだろう。大人なのに泣いちゃった……
大人なのに、というか今、大人だからこそ、なのかもしれない。はたして、自分がこどもだったころ、このような明確なメッセージは世の中にあっただろうか?おそらくない。個性が立てば立つほどそれは変わっていることと同義で、肯定し、自由に広げようとするよりもスポイルしてマジョリティの中に埋没させていくような空気がなかっただろうか、と考える。
「好奇心旺盛だね」と言えばポジティブな響きがあり良いところに聞こえるけれど、あえてそれを「落ち着きがないね」と表現するような…

ここからネタバレ込みで感想を書き殴ります。


①物語全体の流れについて

導入部の北極海のシーン、エヴァかと思った。のび太たちがたどり着くユートピア=パラダピアを作った天才たち三賢人も、聖書の東方から来た三賢者(つまりマギ)みたいだな?って。後述するが、物語のところどころにもエヴァみを感じた。
小学生でトマス・モアを読んでいる出木杉くんにはツッコミたいのだが、そんな出木杉くんから楽園の存在を聞いたのび太が空に浮かぶ三日月型の島を見つけることから、タイムツェッペリンという飛行船で時代の空を移動していくのはドラえもんによくあるイメージのSFだった。ドラえもんの時空移動と言えばタイムマシーンなのだけれど、空の旅ゆえに飛行船。ちょっとレトロ。オープニングののび太のバックにある映像もレトロだった。飛行船の設計図みたいなのがブラウンで描かれていて、いい意味で違和感を残す。ドラえもんのひみつ道具って便利で合理的だし、タイパも叶えるとても未来的なものなのに、19世紀的なものを感じさせる映像だった。
この三日月型の島を見つけるあたりで起こることはラストの伏線になっていて、古いひみつ道具をリサイクルゴミ袋にいれて捨てるところも時代感じると思ったけどこれも伏線。ドラえもんが中古で買ったタイムツェッペリンのおまけにもらった「インスタントひこうきセット」というちっちゃな飛行機の袋詰めおもちゃが、飛行服になり個人の飛行機になって乗り回せるのわくわくしてわたしはようじょに還った。

キンプリを知っている身からすると、永瀬くんが声優で出演することを発表した日に、3人が脱退することを発表しており、絶望したオタクが「誰もが幸せに暮らせる楽園」を求めていたし、昨今の世界情勢からしても、争いも犯罪もなく、誰もがパーフェクトな存在であることで平和な世界が構築されているのならそれもいいね、と思っていた。フィクションが現実を度外視してユートピア的希望を描いてくれるならそれに浸かるのもいい。そもそもフィクションにはそういう力だってある。ドラえもんってやっぱりこども向けだし、そういう側面が強く描かれるのかも…なんて数か月前の想像を打ち砕く恐怖!!
パラダピアの人々はいつもニコニコしている。のび太たちの通うことになったパラダピアの学校でも、算数の答えに詰まっていたらみんながこぞって「できるよー!」「落ち着いてがんばって!」って応援してくれる。まあ……やさしい世界ってやつ……?
だけど、「争いも犯罪もない、平和な世界でパーフェクトな存在」になること=「こころをなくすこと」であることが明かされる。三賢人が開発した人工太陽であるパラダピアンライトを浴び続けることで自分で考えることを放棄する……言うなれば洗脳、カルト宗教がよぎる。ただ信仰する明確な存在や教えを示しているわけでなく、「パーフェクトな存在になろう」って話なのでうさんくさい自己啓発セミナーやサロンに近い。住民がつけているバッジが「こころがきれいになる」ごとに三日月から太陽に変わっていくのもうわあ…と思った。その象徴が太陽であることがわかりすぎる。自ら光をはなつ太陽の絶対感。でも自分らしさを失くすごとにバッジが太陽に近づいていく皮肉。
パラダピアンライトが効きにくい性質ののび太は「ジャイアンたちのいいところがなくなって」いっている気がして画一的な存在になっていくことに疑問を感じていきながらも、同時にマリンバさん(かっこいいお姉さんから虫スタイルになってしまうのだがこれがかわいすぎる。井上麻里奈さんの声の振り幅)が侵入して戦ったあと、マリンバさんから事実を聞かされてもまだ三賢人を信じてかばっているという、落ちるか落ちないかの針の振れ具合がリアルで怖い。そしてジャイアンやスネ夫、しずかちゃんは完落ちしており絶望するのび太。
物語の真の黒幕であるマッドサイエンティストな博士は、もともとダメ人間で疎まれて、その個人的恨みから世界中の人々をそういう存在にするための「世界パラダピアン計画」を遂行しようとしているエゴエゴしい人である。その計画発動の依代にされるのび太。エヴァかな?
人間は、エゴを持つ個であるがゆえに、孤独やジレンマを感じたり傷ついたりするし、憎しみあい奪い合い人を傷つけたりする。このどうしようもない人間の自意識や他者との関係、それらが突きつける「個」というテーマはエヴァだけでなく、いろいろな作品に描かれているけれど、おそらく日本アニメ史においてそれを強烈に打ち出して(そのうえで社会現象になるほどに巨大化した作品)、「個」か「ひとつ」かを問うのがエヴァなので、エヴァっぽいと思ってしまう。エヴァは難解、というか観念的に描いているところもあり、着地点がわかりづらいけれど、ドラえもんはNiziUの主題歌も相まって明確に答えを打ち出してくれている、というかんじ。陰キャか陽キャかの差、と言ってしまうと身も蓋もないけれど、今の時代の雰囲気としてはこういう軽やかさがあるほうが似合うと思う。でも個体の存在そのものについてよりも、パーフェクトということばが、最初のうちは勉強ができるだとか運動ができるだとか、そういうことを指しているので、人間の能力で判断して価値を測ることへのアンチテーゼのほうかもしれない。それでいくとエヴァとはまた違った面が見えてくる。
欠点を個性と捉え、「自分らしさ」「ありのまま」であることを成熟した多様性を持って愛し受け入れることと、人は人、という相対主義に走りすぎてダメなところもなあなあに流すことは違う。ここの差異は本当に難しく、ともすれば後者に流れがちになってしまう。「それってあなたの感想ですよね?」は有効的な場面もあるけれど、行き過ぎるとなにも生まない。考えることはめんどくささもある。でも思考することは生きていることでもある。本来、生きることは総じて複雑でめんどくさいものではないかと思う。また、ダイバーシティが進められる一方で、ただ、個人が個人のまま健やかに生きることについて、肯定されていないどころか否定されていることが垣間見える機会は多い。かなり悩ましく深い問題点や課題を提起されたという印象も鑑賞後に残った。
ただ、ドラえもん作品のターゲット層(+Z世代)からすると「らしさ」や「多様性の尊重」は身近にあり、わりと持ち合わせていて、自然に良い着地点に立てるのかな?わたしくらいの世代のこども時代にはあまり感じられなかった価値観なので、更なるアップデートを促される内容だった。こどものころに観たかったな。

②ソーニャというキャラクター

ソーニャ(CV:永瀬廉)

れんれんめっちゃ声優うまくなかった???顔も似てない??キャラに声合いすぎてない??廉くんのこともいろいろ考えて泣いちゃった。
ソーニャ、はじめはやさしくて穏やかなのに湿度を感じられないような、平坦な話し方をしている。それは声優に不慣れだから、上手くないから、じゃなくて、自分のこころを失っているから、個人の感情があまり乗ってないから……物語の後半、彼がすこしづつ自分のこころを見つけなおしていくごとに、声があざやかになっていく。温度や湿度も感じられる。生きている。素晴らしかったです。そしてああいう概念のキャラは大人のオタクをも狂わせると思います……
もともとはダメネコ型ロボットであったソーニャ。三賢人によってパーフェクトネコ型ロボットに改造されているけれど、パラダピアを覆う水の膜に触れると凍っちゃうことを伝え忘れてドラえもん凍らせちゃって「わたしとしたことが!」ってなっていたし、まったく完全無欠ってわけでもない。破顔して爆笑するシーンも出てくるし、ドラえもんたちとの出会いを通して、すこしづつすこしづつ変わっていく。でも、洗脳状態にもあるからすごく葛藤する。パラダピアから住人を連れ出そうとするドラえもんやのび太と戦う最中、ドラえもんがソーニャにこころについて、人間と友達になるためのネコ型ロボットについて、そして君も友達なんだと語りかけてハッとするんだけど「またダメロボットに戻すぞ!」って三賢人に怒鳴られてドラえもんたちに引き金引いちゃうその苦悩、泣いてしまう。
映画公開前、廉くんのラジオにドラえもんがゲストで来たときに「今回、ソーニャと出会ったことですごくいろいろなことを学べた。のび太くんと一緒にいる意味とか、大切なことを教えてもらえた」ってことを話していたことを思い出し、自己犠牲で解決しようとするソーニャとのラストシーンはかなり来る。
ここも本当に難しい。ドラえもんの考えは尊い。君が大切だから、君をひとりにさせるもんか、ひとりに背負わせるもんかっていう。だけどみんなのタケコプターを打ち落として逃がしたソーニャにとっては、みんなを大切だと思ったソーニャが自分で考えて出した答えであり、それも尊重すべき答えでもあるので……考えさせられるね。
ただ、メインメモリーが残ったことで未来でネコ型ロボットの存在を取り戻して幸せそうに暮らしいているのがエンドロールで明かされたので良かったね。きっととても愛されていると思う。のび太に似ている小さな子供が一緒にいたので子孫かも。ソーニャとドラえもんたちは運命的な出会いだったんだ……オタク、こういうのダメ……泣
 

③映像と劇伴について

作画の安定感びっくりした。キャラクターがずっとかわいいの。それと夜のパラダピアはセーラームーンのムーンスティックの上部分みたいな形状で、三日月に蓮の花のモチーフみたいなものが乗っかってるんだけど、朝になると花の部分が開いて下から水で満ちた聖杯のようなものが現れ、その上空に暮らしがある島が浮いて広がっていくときの映像とかすごい好きだった。入場特典としてもらった冊子によると三日月モードと桃源郷モードと言うらしい。
それに劇伴がすごく良かったと思う。とくにそれぞれが飛行機で空に飛び出すところは、突然EDMみたいな打ち込みが始まるっていう「えっドラえもんで!?」という新鮮さがあった。タイムツェッペリンが発進するシーンの音楽も良かった。

④まとめ

年を重ねるごとに、時代が進むごとに、新しい話題作品に時間を使いがちになるし、ターゲット層から外れている作品を観ることが少なくなってくるけれど、長年続くコンテンツのすごさをあらためて感じた。
幼いころに観た「ドラえもん」のイメージは壊れないのに、作風はきちんと時代にあわせてアップデートして、メッセージを発信できる安定感。どんな世界観が来ても、いろいろな要素を混ぜ合わせても結果的にドラえもんです!ってまとめられるの強引かもしれんがすごい。
他のコンテンツでもあるあるだけれど、毎年映画があることで、その年の作品の出来不出来に対する評価はあると思う。今回がどちらに当たるかはわからない。それでも、幼いころから知っている作品を今観て、こんなエンパワーメントをもたらしてくれること自体、新鮮な体験だった。
小さいころに観たことのある作品も、大人になってからわかることもたくさんあるだろうからちょっとドラえもんの映画いろいろ見直してみようかとも思った。最近の新しい作品についても。ドラえもん自体は大好きなので。

それにしても、ソーニャ……かわいいし愛しすぎてなんかグッズほしい。観に行けたのが公開からだいぶ経ってになってしまったからしょうがないけど、映画館にも残ってなかった。残念。ガチャもやりたかったな。













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