チャイコフスキーの旅路
前にある企画で書いたものを少し変えて掲載。調子乗って語っているようにも思うかもしれませんが、あくまで個人の考えと想いです。
※“”は出典ではなく、話の大枠から少し外れた話など。
チャイコフスキーの生涯についての考察
元来、音楽の栄えているのはドイツやオーストリアであると思いがちだが、イタリアのオペラや楽器職人──特にヴァイオリン──はとても有名で優秀だと言われるし、実際そうである。そして宗教的側面で言えば、イタリアのローマにはヴァチカン市国があり、それは言わずもがなキリスト教カトリックの総本山である。南下すれば地中海の風、そしてバルカン半島。スタジオジブリの『紅の豚』は、まさしくあの爽やかでカラッとした空気感を思わせるカットが大量である(筆者が好きなだけ)。そんなある種独特の空気感を持つ、晴れやかなイタリアに影響を受けた作曲家は少なくない。
ロマン派頃はナショナリズム──所謂国民主義、または愛国主義精神が曲調に現れやすくなる。そして、その国民主義的な精神を重んじたのはロシアの作曲家をあげれば俗に言う国民楽派であり、有名な「ロシア五人組」だ。ロシア五人組と言えば、『展覧会の絵』のムソルグスキーなどが有名であるところ。
しかし、あの時代のロシアにはその五人組以外は居なかったのかと言われるとそうではない、かの有名なピョートル・チャイコフスキーが居る。同時代のロシアは、独自に発展してきたオペラ文化だけでなく、西欧の室内楽曲やその他諸々交響曲などの発展も加速した。
そしてピョートル・チャイコフスキー、彼の人生も様々な国に彩られた美しいものだと私は思う。
『イタリア奇想曲』──これを作曲したのは彼である。
機会があって調べた、サラッとでしか読めなかったが。だがそれだけでも、数多の有名なクラシック作曲家の中でも、チャイコフスキーの歩んだ人生はやはり一風変わっているようであるように思われる。
彼の人生は実に彩やかな色で溢れている。生涯幾度も旅をし、数々の国を渡り歩いた。彼が立ち寄ったであろう様々な土地、彼が触れた西ヨーロッパの景色、そして彼の人生を彩った幾人もの人々──から、その生涯の一端が見えてくるはずである。
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ピョートル・チャイコフスキーは、一八四〇年五月七日(ユリウス暦四月二五日)、ロシアの中でもより西ヨーロッパに近い、ウラル地方ヴォトキンスクにて、チャイコフスキー家の次男として誕生した。
ウラル地方──ウラル山脈ということは、そう、彼の家系は生粋のロシアではなく、ウクライナに寄っている。民族の話は余計私には分からないので深堀出来ないが、ウクライナ・コサックの出自だという。彼の祖父が、医師として長年の努力と研鑽により成功を収め、貴族の称を与えられた。
そして意外なことに(?)、ピョートルの両親は職業音楽家ではない。彼の生家のあるヴォトキンスクは、鉱山の発展により機械系産業が盛んであったから、父親のイリヤー・チャイコフスキーも優秀な鉱山工場技師であった。現場監督も務めていたのだそう。だからと言って、彼らが全く芸術に触れていないという訳では無いのだ。
父イリヤーと母アレクサンドラは、それぞれフルートとピアノや歌を嗜む。職業音楽家では無く、あくまで趣味の範囲であるにしろ、チャイコフスキー家はそんな文化的な家庭であったという。家ではレコードが流れ、古典派から何から、小さい頃からピョートルは音楽に親しんだ。
そしてやはりここで才能を見せていくのが、ピョートル・チャイコフスキーである。ピョートルは、幼少期から音楽──特にピアノの才能を見せ、モーツァルトやロッシーニなどのピアノ曲を、両親が招いた家庭教師のもとで教わった。家庭教師は、彼の才能をすぐに見出し、そして彼の繊細さやピアノ意外のもっと根本的音楽の才能を理解したのもそのひとだった。
そんなモーツァルトのような音楽一家に生まれたのならば、このように片時も音楽から離れることなく、成人するまで、地方の教会の専属オルガニストになったり何処かのオーケストラに曲を提供したりと──、そしてそのまま音楽家として世に羽ばたいていくことだろう。
しかし、ピョートルの場合はそう一筋縄(?)ではいかない。彼はその後、一度音楽から離れる──音楽のみに没頭することは出来ないような環境に移ることになるのだ。
一八五〇年、当時のロシア帝国の首都であったサンクトペテルブルク(以下ペテルブルク)に移り住んだ一家は、ピョートルを寄宿制の法律学校に入学させた。後、彼は法律という難しい学問の分野において、優秀な成績でこの学校を卒業することになるのだが、それはまた別のパラグラフにて。
このことから、ピョートルは音楽の才能だけでなく、一般的に見ても(?)頭も良かったことが窺える。──法律学校を卒業した後、きちんと役所に勤め、どんどん階級もあがったし。
法律学校は貴族の子息が多い。なんとなくイメェジとして、だらけてしまうような気はするが、そんな法律学校在学中も彼は様々な音楽に触れることを忘れなかった。
この頃のピョートルは、ペテルブルクの劇場に通いつめて、当時人気であったイタリアのオペラをよく鑑賞した。そこから着想を得るなどして自作のオペラの構想も、この頃から多く練っている。
学校時代のピョートルは、この法律学校の聖歌隊で歌を学び、ミサなどではソロを、そして代理で指揮も振っているなど、音楽面においても学びの多い日々を過ごしていたようだ。
先程も触れたように、この法律学校は貴族階級の者が多く居たから、多感な彼の青年時代を良く彩ったと考えられるだろう。
あまり知られていないが、彼の作品の中には僅かだがロシア正教会用の聖歌も存在する。高貴なそれらの教会曲は、この時代の彼の日々が反映されて、荘厳で清く美しい曲となっているのかもしれない。(夜に聴くととても安らぐ気がする。)
実はそれも、彼の法律学校時代のある出来事が関係していると考えられている。
一八五四年、ピョートル・チャイコフスキー、一四歳。この年、彼の優しき母であるアレクサンドラが、四〇歳で病死した。彼はこの出来事に、言わずもがな大きな打撃を受けた。
──彼の、離れて暮らしていた兄弟姉妹と、休日などにはよく集まって楽しく遊ぶようになるのもちょうどこの頃だが──それでも、若くしての母の死は彼の今後の作風に大きく影響したのだろうと推測できる。
この直後から、彼は更に音楽に傾倒するようになり、そして彼の最も古い作品だといわれるアナスターシャ・ワルツの作曲もこの時期に書かれたと言われている。作曲だけでなく、キュンディンゲル(ドイツ人ピアニスト)からピアノを、その兄から音楽理論──主に和声学を学んだ。ピョートルのピアノの才は、小さい頃から顕著であったから、どちらかというとそれまで手を出していなかった音楽理論に関することを多く学び始めたといってもいいだろうと思う。
とは言いつつ、一八五九年、ピョートル一九歳、優秀な成績で法律学校を修業した彼は、そのまま法務省の訴訟関連の事務員として働くことになった。
しかし継続的に音楽、もとい作曲に取り組んでいた。こうして、法務省の職員として働く彼の生活は、数年後に新たな出会いによって変化する。
というのは──…。
一八六一年の出来事。ピョートルは知人の紹介で、現在のロシアでも重要な位置付けとなっている「ロシア音楽協会」の存在を知る。その系列にて運営されている音楽クラス──後、創設者アントン・ルビンシテインによりサンクトペテルブルク音楽院に改組されることになる──にて、彼は編曲と作曲を本格的に学ぶことになった。
この音楽クラスに入るまでは、あくまでも独学(?)がメインでのクラシック音楽の作曲活動であったといえるだろう。アントン・ルビンシテインとの出会いは、チャイコフスキーの音楽活動に多大なる影響を及ぼしたと考えられる。
アントン・ルビンシテインとピョートルは、アントンの弟ニコライ・ルビンシテインを含め、後年まで交友関係が盛んで、弟子としてだけでなく気の置けない友として親交があった。
ピョートルにとって、間接的であれ、西ヨーロッパ各国の様々な音楽や作曲家の考えに触れることができたのは、ルビンシテインとの交友のためではないだろうか。オペラの構想だけでなく、有名な弦楽セレナーデなどが作曲されることになったのも、ルビンシテインのもとで作曲を学んだことと関係しているのではないかと考えられるだろう。
そうしてサンクトペテルブルク音楽院にて更に音楽にのめりこんでいったピョートルは、一八六三年、彼が二三歳のとき、ついに法務省の職を辞め、完全に音楽活動に専念することになる。
そんな彼の曲調が、優雅だが随分とかっちりとした印象を受けることが多いのは、ロシア音楽と言うだけでなく、彼が一般高等教育を受けた後に、音楽家として遅めのスタートを切ったからというのにも起因しているのかもしれない。
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一八六五年。ピョートルはサンクトペテルブルク音楽院を(法律学校に続きここでも!)見事な成績で卒業し、そのままモスクワへと転居することになる。彼がモスクワへ移ったのには、アントン・ルビンシテインの弟ニコライとの出会いによる。先述したように、兄アントンと同じように、ニコライもモスクワにて音楽院を創設した。そのモスクワ音楽院の音楽理論の分野において、ピョートルのことを講師として招いたのだった。──彼は以後一二年間、このモスクワ音楽院で教鞭を執り続ける。またその後も、ヨーロッパ各地に旅に出る生活になるものの、彼の活動拠点はモスクワ付近に集中する。
モスクワにて、ピョートルはまたもや素晴らしい“出会い”を体験することになる。
まずは、彼がその後、自身のほとんどの楽曲をそこから出版することになる『ユルゲンソン社』の創設者ピョートル・ユルゲンソンとの出会いだ。ユルゲンソンのピョートルに対する思いは熱いもので、彼の初期の作品はほぼユルゲンソン社が独占して販売するほどであった。(なんなら名前まで一緒である。)
ピョートル・ユルゲンソンとの書簡は多く残されており、現在、ピョートル・“チャイコフスキー”の研究をする学者にとって重要な資料となっている。
──教師としても安定し、音楽活動のみに一層専念できるようになったピョートルは、この年に交響曲第一番『冬の日の幻想』を作曲し、この曲は翌年から二年にかけてモスクワにて初演された──全楽章同時に初演されたのではなかったので、“二年にかけて” という言い方をした──。交響曲第一番『冬の日の幻想』は、ロシアの情緒豊かな曲調であった。この交響曲の初演は成功した。これにより、彼はモスクワにて第二の大きな出会いを果たすことになる。
一八六八年、当時ロシア国民楽派として名高かった「ロシア五人組」のメンバー(ついに出てきた、ロシア五人組。)との出会いにより、以降の彼の作品には、少なからず国民楽派色の現れるものが残されることになる。それまで、ピョートルとロシア五人組は、曲調において相容れない関係だったらしいが、しかし実際互いに影響を与えていたのは、作品の情緒で分かる…。
ロシア五人組との交友を結んだピョートルは、その一人であるミリィ・バラキレフの意見を聞きながら、有名作品である幻想的序曲──またを、演奏会用序曲という、なにかを題材にして作曲するもののオペラとして後続する曲や脚本が無い曲のこと──『ロミオとジュリエット』を作曲し、これをバラキレフに献呈している。
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そしてこの頃から、ピョートルの私生活においても様々な出来事が起こる。
特筆すべきは、ベルギーのオペラ歌手デジレ・アルトーとの恋だ。家族や師の反対などもあり(有名で成功している歌手のもとでは作曲活動の妨げになったり、妻の稼ぎに養われている夫になったりするのではと咎められた)、婚約には至ったが長年連れ添うことは叶わなかった。──しかし、これ以降の彼の恋愛模様は決して良いものとはいえないようだ。その後の女性関係については後述するとしよう。
ともかくも、ピョートルの音楽活動は順調に進んでいた。興味深いのは、彼が作曲や演奏、教師として音楽に関わるだけでなく、評論という分野にも手を出していることだ。
一八六八年、新聞「同人代の年代記」紙にリムスキー=コルサコフの作品についての音楽評論文を掲載したのをきっかけに、一八七二年からは新聞「ロシア報知」の音楽批評欄を担当するようになり、一八七六年までこの活動を続けた。(そしてまあまあの量を寄稿している…。)
その頃も、彼はモスクワ音楽院の教授として仕事をし続け、一八七五年にはピアノ協奏曲第一番を完成させた。初演にて──親友に頼んだにも関わらず──「演奏不可」と言われてしまうなどと色々と問題は発生したものの、国外での演奏などを踏まえ、最終的には高く評価され、ヨーロッパ各地で演奏されることになった。彼の作曲家としての名声も伸び、音楽家として軌道に乗り始めている様子が窺える。
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ちょうど彼が評論から離れる時分──その関係性は実に奇妙なものだが──ピョートルにとって晩年まで支えとなる人物との交流が始まる。
一八七三年に完成させた幻想的序曲『テンペスト』の公演を聴いたロシアの資産家の未亡人、ナジェジダ・フォン・メック夫人からの、以降数十年間にも及ぶ膨大な量の資金援助である。この後一四年間、彼らの間で頻繁に手紙のやりとりが交わされることになるのだが、その後夫人との縁が切れるまで、彼らは一度も、直接会っての会話はしていない。全て手紙のみの交流であった。
メック夫人との交流関係が出来上がった頃に作曲された彼の作品には、彼女に向けて書かれたものも多くある。
──彼の交友関係はそうしたロシア五人組などの音楽家や、メック夫人のようなパトロンだけでなく、同じ芸術の一分野である、文学作家にも伸びる。トルストイはピョートルと面識のある他分野の人物の一人だ。トルストイ以外も含め、彼はこうしたロシアの作家の作品を題材とした曲を多く書いている。
後期ロマン派の時代が、標題音楽や交響詩などが発展したから、彼も同じように他分野の人々と交友を深めていたともいえると思われる。
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彼の生活は充実して安定したかにみえたが──そう、確かに安定はしたのだ──しかしここで、彼の人生において最大の“下り坂 ”が始まる。それは、ピョートルの結婚に関する出来事だ。
しかしピョートルの場合、彼自身の問題もあるかといえば、明らかに妻からの愛の重さが原因だと言えるだろう。この結婚が彼の心を徐々に蝕み、一時精神を病んでしまうきっかけとなるのだ。
──一八七七年。彼よりも十歳ほど年下のアントニナ・イワノヴナは、共通の知人を通して出会ったピョートルに長年片思いをこじらせていた。そんなアントニナはついに、数年越しの自身の想いをしたためた手紙で、彼に対し猛アタックを仕掛けた。彼女の愛は、恐らく誰が見ても重いものだといえるだろう。そうして長年拗らせてきた彼女の大きな愛は、ピョートルの頭を抑え込む。断り切れぬほどの彼女の“圧”により、ピョートルは熱烈なアプローチに根負けし、婚約することにした。──しかし結果は先に示した通りだ。ピョートルにとって良いものではなかった。
メック夫人にあてた手紙や、彼の兄弟姉妹に送った手紙には「彼女は私の音楽やそれに対する想いをあまり理解してくれない」「彼女の家の仲は険悪で…」といったように、妻アントニナとの確執に苦悩している様子が見て取れる。
結局、ピョートルは逃げるようにして妻のもとを去った。住み慣れたモスクワの街を離れた。
──そんな彼の行く先を定め、その後も静養のために各国に旅行したピョートルの助けをしたのは、やはり彼の兄弟であった。彼の心の支えとなった者のうちは、兄弟姉妹であったのには間違いない。
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どうしようもなくなって、苦悩の末選んだ自殺未遂などを経て、彼は弟の手引きでペテルブルクに逃れた。これにて妻アントニナとは事実上離婚となったのだが、彼女からはその後数十年間一方的な手紙が何通も届き、彼の頭を悩ませることになる。彼のうつ病も、快方に進んではまた戻り…を、繰り返した。
そうして──そんな苦悩の年に、彼の後期の傑作は生まれたのだ。バレエ音楽『白鳥の湖』である。そして彼は立て続けに、オペラ『エフゲニー・オネーギン』も完成させた。バレエもオペラも、どちらも言わずもがな長編の作品である。
それまで長作を書くことを一度休止していたピョートルが、続けざまに二本も超大作を作曲することが出来たのには、心休まる存在であろう弟の協力で妻から避難し、大きな安心を得たからこそなのかもしれない。だとすると、結婚生活でどれほど彼が思うように作品を書けない状況にいたかが分かる。そしてそれほどまでに、彼の兄弟姉妹の存在が大きな支えとなっていたのだともいえるだろう。
一八七七年から、ピョートルは結婚生活で衰弱しきった心身の静養のために弟と共にスイスやイタリアで過ごした。彼にとって二度目のイタリアは、やはりあの明るい地中海の風土が彼の苦悩を癒やしたのではないだろか。そしてそんな中で歴史の深い文化や芸術に改めて触れ、そうして管弦楽曲『イタリア奇想曲』が構想されたのだ。──彼の心身の疲労は、回復していくたびその反動で素晴らしい曲を次々と生み出す。
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一八七八年から、ピョートルは十二年間務めたモスクワ音楽院を辞職してヨーロッパ各地を転々としながら、弦楽セレナーデや大序曲『一八一二年』などの、──オペラやバレエ以外の──大作以外の作品作る。この生活はこの後、約十年間ほど続く。
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一八八二年、ピョートルはついに数年の旅生活に終止符を打ち、モスクワとペテルブルクを行き来するような生活に落ち着いていた。ピョートルは晩年にかけて以前よりも社交的な行動を取るようになり、丁度この頃から、彼の旧交や新たな交友関係が活発になり、その周りは随分賑やかになる。まず手始めに、旧友のバラキレフとの交流が再燃し、彼の勧めで『マンフレッド交響曲』を書き始めた。
旅生活から戻ってきたピョートルは、この頃ロシア音楽協会のモスクワ支局長に選ばれ、次いで彼の弟子であったタネーエフもモスクワ音楽院院長に選ばれた。そんなこともあって、ピョートル自身も音楽院の試験に立ち会うなど、積極的に色々な人々との交流を楽しんだようだ。
一八八八年には、交響曲第五番やバレエ『眠れる森の美女』を完成させる。両曲とも劇場での初演は──賛否両論あれど──大成功を収めた。
そして、彼の社交的な活動は音楽院などにとどまらず、作曲だけでなく指揮者としてオーケストラの前に立ち、様々なオーケストラのたくさんの演奏会で指揮台にのぼることになる。
さらに同年一月には、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮をきっかけに、翌年にかけてベルリン、プラハ、ロンドンなど各地で自作品の演奏と指揮を披露した。この演奏旅行でピョートルは、
ヨハネス・ブラームス、エドヴァルド・グリーグ、リヒャルト・シュトラウス、グスタフ・マーラー、アントニーン・ドヴォルジャーク、シャルル・グノーやジュール・マスネなど、
たくさんの音楽家と知り合うことになる。(なんて目まぐるしく、そして鮮やかな数ヶ月…!)
さらに演奏旅行先のライプツィヒでは、かつての恋人デジレ・アルトーとの再会を果たし、懐かしき旧交を温めたのだった。
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一八九〇年、長年資金援助をしてくれていたメック夫人から突如打ち切りの手紙が届き、そうした長年の大きな支えとなっていたパトロンとの突然の別離はピョートルに大きな打撃を与えた。──しかし、一方で彼の作曲活動にはあまり支障は出ていないかのように見える。
一八九一年にはバレエ『くるみ割り人形』を作曲。ヨーロッパを越え、遠くアメリカにてカーネギーホールのこけら落としに出演し、大成功を収めた。
そして、クリンに転居し一年後。一八九三年にはロンドン、ケンブリッジ大学音楽協会からカミーユ・サン=サーンスら他の有名作曲家と並び、名誉博士号を授与された。(国外での評価が目に見えるかたちであがっているのが分かる…。)
──華やかな晩年。それを締めくくるのは、並木が紅く染まる季節であった。
ピョートル・チャイコフスキー、最期の年である一八九三年。六月にロンドンにて名誉博士号を授与されたその年の秋である。
十月二八日(ユリウス暦十月一六日)に初演された彼の最期の曲は、交響曲第六番『悲愴』。交響曲にしては暗く哀しい曲調──特に終楽章の緩徐部分──は、彼の描く「人生とは。」という問いについて深く考えさせられる。初演の二日後に、ユルゲンソンへ宛てた手紙には、副題を「Simphonie Pathétique」として出版することを指示している。
ペテルブルクでの初演はチャイコフスキー自身の指揮にて、成功を収めた。はじめはこの交響曲の独創さに聴衆の困惑を招いたものの、彼の成功を確信する揺るぎない自信は変わらなかった。
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それから僅か九日後、十一月六日(ユリウス暦十月二五日)、ピョートル・チャイコフスキーは彼の弟の家にて急死する。享年は五三歳であった。
彼の死因については諸説があり、当時囁かれた一説には彼の同性愛による問題で秘密法廷が開かれ、名誉の自殺の決定・強要がされたといわれたが、この説は現在では当時の状況や死亡診断書などから根拠のない作り話であるとして否定されている。
従って、彼の死亡直後から現在までの最も有力な説は、原因として彼が観劇後に会食をした文学カフェにて、皆の静止を聞かずに生水を飲んだことによるコレラ及び肺水腫であるとされている。
彼の死はロシアにとって大きな喪失であった。当時のロシア皇帝アレクサンドル三世によって彼の国葬が決定され、ペテルブルクのカザン大聖堂によて執り行われた。遺体は、アレクサンドル・ネフスキー大修道院の墓地に埋葬されている。
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彼の前期の作品は初演などで一発での成功を収めることは少なく、実際「演奏不可能」と友人のルビンシテインから言い渡されてしまったピアノ協奏曲第一番などがあるが、しかしそれでも間もなく彼の作品は評価された。
現在では彼のほぼ全ての楽曲が広く認められ、叙情的で華やかな旋律は、時折現れる悲哀に満ちたメランコリックな一面と共に世界に高く評価されている。情緒に富んだ彼の曲想はさながらその彩やかな旅の記憶を──華やかでいて影を持つロマン的な曲調は、彼の抱えた苦悩と多方面にわたる人間関係の模様を思い起こさせる。
それでも、深い悲しみを超えるほどの鮮やかな彼の人生は、まさに彼の旅したその日々を思い起こさせ、その日々に想いを馳せることが出来るのではないだろうか。
参考:
・Wikipedia 2022/02現在
チャイコフスキー
イタリア奇想曲
ロマン派
国民楽派
・西洋音楽史/パウル・ベッカー
・チャイコフスキー イタリア奇想曲 総譜(全音楽譜出版社)
など