![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/158980831/rectangle_large_type_2_e5015b7f85488826a0853573a42a5783.jpg?width=1200)
#87自由は与えられるのではなく、創り出すものだ。
自由についての大きな誤解
自由になりたいと願う人は多い。
私もその一人だ。
そんな私だが自由について考え尽くしてみて、
わかったことがある。
自由とは『与えられるもの』じゃない。
勿体ぶらずに結論を述べよう。
与えられるのを待っていては、
自由になることはできない。
何故なら自由とは、
『創り出すもの』だからだ。
これに気づくと同時に悟ったことがある。
過去の私を含む多くの人々は、
自由を根本的に誤解しているのだ。
その誤解とは先ほど冒頭で持ち出した
自由とは与えられるものという認識である。
改めて、自由とは与えれるものではなく、
創り出すものである。
それはまるで楽器を弾いて、
『音色を奏でる』ようなものである。
想像してみて欲しい。
楽器を買い与えられたとしても、
音色を奏でることは自分にしかできない。
とはいえまだ納得できないかもしれない。
『自由が与えられるもの』
という認識はそれほどに手強いものだ。
もし、あなたが誤解を解きたければ、
以下の文章に目を通していただきたい。
自由が創り出すものである理由
『自由が与えられるもの』という考えは、
私自身、ずっと持ち続けてきたものだ。
順を追って話そう。
まず、自由の構造についてだ。
私なりに自由を紐解いた結果、
自由とは二つの条件によって成り立つ。
一つは能力を有していること。
もう一つは能力を行使すること。
能力とは身体能力、認知能力、コミュニケーション能力のことであり、挙げればきりがない。
これらには言わずもがな、
遺伝的に『与えられたもの』が含まれている。
しかし重要なのは、自由とは与えられた能力があっても行使しなければ成立しないということだ。
例えばどれほど高い身体能力があっても、それを行使できなければどうだろう。
イップスといった精神的なトラウマを聞いたことはあるだろうか。(特定の運動において一定の動作を正常に行うことができなくなる精神疾患である)
これを患ったスポーツ選手は、言わずもがな酷く不自由な制約に縛られれこととなる。
即ち、人は与えられたものだけで、
自由を実現することは不可能なのだ。
自由とは能力があることに加えて、
能力を行使することで創り出されるものである。
自由になるには
冒頭の議題に立ち返ると、
私たちは自由になりたいのだった。
ここまで述べてきたことを振り返れば
自由に必要な条件は
『能力を有すること』と、
『能力を行使すること』である。
では、日々の中でどのように実践するのか。
最も大切すべきは以下の原則に基づく指針だ。
『自由とは能力を行使することであり、自らが創り出すものであると心がけること』
個人的な話になるが、私はとても貧乏だ。
コンビニでスイーツを買うこともままならない。
大の甘党である私はコンビニに立ち寄った際、
必ずというほどこれに手を伸ばしていた。
だがしかし、私には自制心がある。人間なら誰しも少しばかりは持ち合わせている能力だ。
このような能力があるとわかっていれば、
私のやるべきことは一つしかない。
それは自制心という能力を行使するのだ。
こうすれば私はスイーツを買わずに節約するという、一つの自由を創り出すことができる。
最後に
当たり前なことを長ったらしく書いてしまった。
そんな気もしている。
だが、私と同じく『自由が与えられるもの』であるという誤った解釈は誰にでも起こり得る。
それは意識していなければ、徐々に薄れていき、いつの間にか自由は奪われているかもしれない。
改めてこの文章を読むことで、自由という概念を整理するのに使って欲しい。
『自由とは能力を行使することで、
自らが創り出すものである』
願わくば、この一節を利用頻度の高い頭の引き出しにしまっていただければこの上なく嬉しい。