社会に「閉ざされた」学校を目指して

次期学習指導要領のキーワードとされる文言のひとつに、「社会に開かれた教育課程」というものがあります。詳しい説明は文科省のHPなどを見ていただくとして(詳しい説明も何も、「学校が社会から閉ざされてるのはよくないよね」くらいの意味しか無いようにも見えますが)、学校が社会と連携すべきであることに異論のある人はあまりいないと思います。

学校の勉強は社会に出たら役に立たない。

こういう意味のことを主張する人間は無限に存在していますし、一面的には確かにその通りだとも思います。学校の授業が社会に出たときにどう役に立つか、という点についてはまた別な機会に書くとして、ここでは「学校が社会に開かれていること」そのものの是非について考えてみたいと思います。

「社会に出て役に立つこと」を学校で教えるのが、本当によいことだと言えるのか。

僕自身、教員になる前は、「社会に出て役に立つこと」を教えたいと思っていました。というより、それ以外に「よい教育」の形を考えることができませんでした。

考えてみれば、「よい教育とは何か」を机の上で考えるなら、何らかの形で実利的な効用の期待できる教育こそがよい教育であると結論するのが当たり前です。「社会に出て役に立たないこと」を教えることのメリットを敢えて主張しようとする動機を持った人間はそんなに多くないからです。

「社会に出て役に立つ」ことを教えるのがよい教育である、という結論は、教育について何らかの議論をしようとする人間が99%の確率で(少なくとも一度は)たどり着くであろう、最も安易な答えであることをまずは理解すべきです。逆に、「よい教育」の条件の一つとして「社会に出て役に立つこと」を思いつくことができないような人間は教育者としての資質を疑われるでしょう。それは誰もが思いついて当然の答え(のひとつ)なのです。誰が考えてもそうなるのが自然であるような答えを「自分の意見」だと思い込むのは危険です。

人間は生きる為に社会を必要とします。社会とは、人間の生存の為に必要なものを生産し、分配する機能を持ちます。特に重要なのは分配の機能で、人間は「同じ社会のメンバーである」という理由で、食べ物を他の個体に分け与えます。猿の社会では、与える側の個体に相応のメリットがあるときに、というより分け与えない場合に大きなデメリットが発生するときに(しぶしぶ)食べ物を分配することはありますが、「仲間だから」という理由で自分の食べ物を他の個体に分け与えようとする動機を持っているのは人間だけです。人間社会は、「自分たちは仲間である」という強い共感によって結びついた共同体であり、その共同体に守られることで、個人の生存が保証されているのです。

ただし、人間は最初から社会に順応しているわけではなく、社会の一員となる為に教育を必要とします。社会は「同じ社会の仲間」とみなした個人に対しては強い共感と同情を発揮し、個人の窮地を救ってくれることもありますが、個人の側が社会に対して「私はあなた達の仲間です」というアピールを怠ったときには、容赦なく個人を排除するものです。だから個人は教育を受けることで社会に順応し、社会のメンバーとして認めてもらう為のスキルを身につける必要があります。これを「個人の社会化」などとも呼びます。

したがって、社会に出て役に立つことを教えることが教育の目的のひとつであるという点については議論の余地がありません。ただそれは教育の目的の全てなのか、あるいは最も優先されるべき課題なのか。

社会に順応することは「よいこと」なのでしょうか。

社会に順応することは生きる為に必要なことです。しかしそれは、少なくとも道徳的・倫理的な善悪とは関係の無い話です。

学校教育の場において、「いじめ」はあってはならないこととされていますし、おそらく道徳的にも許されないこととされるでしょう。いじめ防止対策推進法という法律の第四条には「児童等は、いじめを行ってはならない」とあり、法的にも禁じられています。

しかし、社会において「いじめ」は悪であるとみなされているでしょうか。ちなみに、いじめ防止対策推進法の定義によると、「いじめ」とは「児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているもの」とされています。

簡単に言えば、本人が苦痛を感じていればそれは「いじめ」なのです。加害者側がどういう意図でその行為をしたかは問題になりません。悪意が無くとも、もしかしたら善意の行為が結果的に「いじめ」とみなされる可能性さえあります。そして、被害者がどういう人間であるかも考慮されません。客観的に見てその被害者にいじめられるだけの十分な理由があるとみなされる場合であっても、「いじめ」は許されないというのが学校教育におけるルールなのです。

よく考えてみると、これは社会の基準からするとかなり厳しいルールです。

例えば職場の中で誰から見ても能力が足りておらず、同僚や上司の足を引っ張っており、かつ自分の課題を改善しようとする意志も感じられない人間が、周りから辛く当たられることを悪いことだとか間違ったことであると感じる人はそれほど多くはないでしょう。

学校はそのように考えません。「いじめられるだけのことをした人間がいじめられるのは当然である」という理屈を受け入れてしまえば、いじめの加害者は被害者の落ち度をあげつらうようになるだけだからです。だから学校は、「どういう理由があろうといじめは許されない」というルールを設けています。

社会はそうではないのです。現に、「いじめられるだけのことをした人間がいじめられるのは当然である」という(学校教育の文脈では絶対に容認されないはずの)意見がかなりの程度に支持されてしまっているという事実があります。社会に順応することは、道徳的な正しさとは無関係ですし、いじめの問題に見られるように、法的な正しさとさえ関係がないことも多いのです。

道徳的な善悪は別としても、社会に順応することで本人が幸福でいられるのならそれはそれで良い、という見方もあり得ます。しかしそれも怪しいものです。現実問題として、社会に順応しているけれども幸福とは言えない人間はいくらでもいます。

というよりも、社会に順応すればするほど、自分個人の幸福が何であるかが見えにくくなる可能性もあります。社会というのは強い共感を基盤にした共同体であり、そこでは共通の価値が追求されることが自己目的化していきます。「みんなが欲しがっているものと同じものを欲しがること」はそれ自体が社会に対して「私はあなた達の仲間です」とアピールする行為です。「インスタ映え」の為に食事をするのは極めて健全な社会的行為と言えます。ですが、そういうことを繰り返していれば、自分自身に固有の欲望がどこにあるのかがわからなくなっていく、というよりも固有の欲望そのものが失われていく危険性も高まっていくのです。

そして、社会に順応するのは生存の為であると言いましたが、社会に順応していれば生存が保証されるかといえば、それさえも確実とは言えません。社会への順応性が高い個体ほど個人としてみたときには無個性であり、無個性であれば取り替えが効くわけですから真っ先に切り捨てられるリスクも高まっていくのです。

要するに、社会に順応することは、生存の為の必要条件ではあっても十分条件ではないのです。

人間は社会に順応しなければ殺されてしまいますが、順応しすぎた結果殺されることもあるのです。

アイヒマンは極めて平凡な社会人でした。彼はナチスの社会にあまりにも順応しており、自分の行動の善悪を判断することができなくなりました(集団的ないじめの加害者グループの一人が自分の行為の善悪を考えていないのと全く同じ現象です)。いや、彼自身、自分の目でユダヤ人が殺害されるところを見るのは辛かったと証言しています。それでも、彼は自分の「職務」を投げ出すことが出来ませんでした。その行為の是非を判断する自由を放棄してしまったからです。ホロコーストは全体主義国家という目に見えない概念によって実行され、アイヒマンを含むナチスの役人や軍人は、ただ決定されたことに従う道具でした。

アイヒマンの行為が道徳的に間違っていたことは疑いなく、常識的に考えるなら彼が個人として幸福であった蓋然性は低く、結果的にはその生存も奪われてしまいました。

アイヒマンにならない為には、何が道徳的な行為であるかを自分の頭で考える必要があります。自分にとっての幸福が何であるかを自分の頭で考える必要があります。それは、社会に必要とされる知識や技術とは全く違う能力です。社会が必要としていることそのものを疑う能力です。その能力を身につける為には、「学校は社会に出てから役に立つことを教えるべきである」という誰もが思いつくであろう命題を疑うことが必要になります。社会の正しさと、法的な正しさと、道徳的な正しさは全て別であることを知る必要があります。

僕は、自分の意志と責任によってアイヒマンのように生きることは必ずしも否定しません。一人の公務員として、アイヒマンと杉原千畝のどちらが正しいかということは一概に言えないからです。ただ、社会から理不尽な命令を突きつけられたときに、従うか逆らうかを自分は選ぶことが出来るのである、そして選んだ結果には自分が責任を引き受ける以外にないのであるということを自覚すべきであると思うのです。


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