評論文の指導について(1)
評論は常識を疑うところから始まる。「常識を疑うこと」の重要性は、それ自体が評論文の主要なテーマのひとつとなる。常識を疑うことは哲学の始まりであり、哲学の始まりは学問の始まりである。だから、アカデミズムの世界では常識を疑うことの意義が繰り返し説かれる。
常識を疑うことの重要性、あるいは常識を疑うことの難しさを論じた文章を生徒が理解するには、生徒自身が常識を疑うことの意義を実感しなければならない。ところが、生徒は、というより多くの人は、常識を疑う必要性を感じていない。というよりも、常識を疑うことは普通の人にとって苦痛なのだ。多くの教員はその事実をあまり正しく認識していないように思われてならない。勉強してたくさんのことを学んで、それまで当たり前に受け入れてきた偏見を覆され、視野が広がり、世界が広がっていくことは、誰にとっても無条件に歓びであるような経験ではない。
そもそも、常識を疑い、それまで自明のものとして受け取ってきた世界観を揺るがされることは、今日と同じ明日が来ることをもはや無邪気に信じられなくなるということである。それが一般論として苦痛であるという事実を、教員は正しく理解しなければならない。生徒が勉強をしないのは、勉強自体が辛いからというだけでなく、勉強によって得られる報酬それ自体に魅力を感じていない可能性を考える必要があるのだ。
ただ、それでも、常識は疑われなければならない。
常識とは、人が無自覚に身につけた世界観である。自分がどのような立ち位置から、どのような問題意識を持って世界を解釈しているのかを自覚しない人間は、主体性を持った個人である「私」として世界の中に立ち位置を作ることができない。
自律した個人としての「私」の独自性は、「私」がもつ視点と問題意識の独自性によって保証される。「私」と同じ場所に立って同じ問題意識を持って世界を解釈する主体が、「私」の他にもうひとり存在するということはあり得ないからである。言い換えるなら、自分に固有の視点と問題意識がどのようなものであるかを自覚しない者は、固有の意味と価値を有する「私」として世界の中に居場所を得ることができず、したがってそのような人物は「私」として世界に現れることができず、自律した個人として存在することができないということに他ならない。
自分が世界を解釈する視点と問題意識が、どこまでも自分の立っている場所から見えている景色でしかなく、他者の立ち位置からは違う世界が見えているということを想像できない人間とは、すなわち自らの「偏見」に無自覚な人間である。そのような人間は、自分の思考や価値観が、特定の偏ったパースペクティブに由来するものであることを知らず、したがって偏った思考や価値観に基づく行動について、自らの責任を引き受けることができない。
自分の目に見えている景色が世界の全てであると思っている人間は、自分の行動が常に自分の意図した通りに理解されるはずであることを疑い得ないし、自分の意図した正しい動機に基づく行動の正しさを疑うことができない。自らの正しさを疑うことができなければ、自らの行動の責任を引き受けることもできない。その人物の責任感、というような性格的な問題とは無関係に、原理的に言って、自律した個人となっていない人物が自らの行動に責任を取ることは不可能なのだ。自らの行為の責任を引き受けるのは、自らの行為が社会的にどのような意味と価値を持つのかを自覚できる主体だけである。
自らの行為に責任を引き受ける主体として世界の中に居場所を得るには、無自覚のうちに誰かから与えられた常識を相対化し、改めて自分がいま、どこにいて、どのような問題意識をもって世界を解釈しているのかを自覚し、自らの意志によって自分に固有のパースペクティブを構築しなければならない。そうすることによって、人は初めて世界の中に居場所を持って自らの責任を引き受ける「私」として存在することができる。
無自覚のうちに与えられた世界観のなかに安住し、一生その「常識」の枠組みの中で、今日と同じ明日が来ることを信じて生きていたいという生徒は少なくないだろう。というより、多くの大人が現にそのようにして生きているのだ。けれども、その願いを認めることはできない。日本は民主主義国家であり、国民には主権者としての責任が要求されているからである。生徒自身が望もうと望むまいと、「無自覚に作り上げた偏見のコレクション」は破棄しなければならないし、責任を引き受ける主体としての自覚を持たなければならない。常識を疑うことの重要性は、生徒がその自覚に目覚めたときに自ずと理解されることだろう。
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