タイトルを書いた時点でものすごい吐き気と眩暈に襲われるなどする。どうもこんばんは。彗月 漣太郎です。多分書き終わったら寝込むと思うが、100日連続更新記念と併せて、何かの節目として書いておこうと思う。あまり心地いい内容ではない。
ようやく出た結論。
割と結構な頻度で書いているとは思うのだが、ここではっきりと書いておくと、DVから逃げる形で家を出ている。「母親をDV加害者にでっち上げて不正に福祉を使いのうのうと暮らすっていうのか」と、寂しさに耐えかねた日に電話してしまい(その後電話も全て着信拒否にした)罵られたし、自分でもあれがDVだったのか、何度でも疑問に思っていたのだが、一昨日(というか、昨日の早朝)、ようやく自分の中で結論が出た。
DVだった。はっきりと私の心に傷が付いていて、それは多分まだまだ血が流れている。なので、逃げたのは正しい判断だった。そう結論付けた。生まれてからしばらくは気付くことなく、気付いてからは15年ほど、はっきりと理解出来ないまま耐えて、それから逃げて半年と少しがすぎて、『親子としては二度と会いたくない』という言葉が、ぽたりと出てきた。(なんだか書いていて詩的で恥ずかしいな……書き置きも厨二病くさいって言われたし……)
虐待。
かつての古き悪しき風習としての“しつけ”の範疇ではあったが、私にとっての子供時代の記憶の、ほとんどは暴力と恐怖で埋め尽くされている。時々、やわらかい愛情の記憶をふと思い出しては、親も決して憎かったわけではないのだろうと家を出た事に後悔を重ねる夜もあるが、日常的に思い起こされる記憶の大半は暴力や恫喝であり、嫌味であり、褒めてくれない寂しさであるし、いまだにかなりの頻度で悪夢を見続けている。(引っ越してから半年は毎日悪夢を見ていたが、ここ一ヶ月ほどはその頻度がやや減っているように思う。そもそも眠る日が減っているのもあるが)
身体的な暴力は、20代半ばだっただろうか、母親のビンタをまだ受けていたのだが、それに対してこちらも物理的な反撃に出た事と、過去の暴力について、はっきりと「しつけじゃなくて虐待だと思っている」と叫んだのを恐らくきっかけにして止んだ。
さすがに成人している娘を手でひっぱたく事にも疲れたのもあるのかもしれないし、母親曰く、「虐待のような『親の気まぐれや憂さ晴らしや子供憎さで行われる暴力』と一緒にされるなんて」「すぐ虐待って言うから殴れないじゃん」とも言っていたので、あくまでも虐待を認めたわけではないのかもしれない。バカ娘がしつけを虐待呼ばわりする隙を与えたくないという気持ちなのかもしれない。
それから数年間、家から出る直前までも、何度かヒートアップした時に手を振り上げられたり(こちらも反撃の姿勢を取ったら手を下ろすようになった)、「殴らないとわからないならまた殴ってもいいんだからな」と吐き捨てられた事もあったが、実際に殴られることはなく、基本的には恫喝や精神的な圧力、物を投げたりドアを大きな音を立てて閉じたり、そんな状態が続いた。
もちろんこれらは親が理由なくブチギレたわけではない。(基本的には)(時々、暴力による自白といった形で冤罪を被ることもあったのは確かだ)私の成績があまり良くなかったり、友達と遊ぶのにどうしてもお小遣いが足りなくて親の金を盗んだり、まともに会社に行けなかったり、挙げ句の果てにはマルセイ(母の時代ではキチガイとかカタワとかそういったものと同等の単語として使われていたようだ)に成り果てて乞食(生活保護の事をこう呼んでいた)して生きる事を選ぼうとしている不安だとか、家事の不手際だとか、そういったものに対しての、 親から見れば正当化しやすいしつけだった。
ただし、それらのほとんど全てにおいて、言い訳をするならば原因は親(あるいは体罰教師やパワハラ上司や買春ジジイも含むが)であり、恐らくは他の子どもよりも生きることの難易度がだいぶ高く設定されていたし、恐らくは遺伝や、あるいは、そういった暴力による脳へのダメージ由来の精神不安も内包した体調不良で身動きが出来ないという、ゲームで言えば『スリップダメージ』や『デバフ』といった状態である。
(盗みに関してだけ言えば殴ってでもしつけてくれてよかったと感じてはいるが、とはいえ、金がなければ追い出される子供同士のコミュニティが主だったところで過ごすのは難しかったし、隙あらば子供でさえ食い物にされる地域であり、親に弁明する機会も賢さもなかったが、実は押し売りでお金を奪われた事もあるので、理由を聞いてくれたらよかったのにと思う気持ちもある)
母のDVは私だけに向けられたものではなかった。小さい頃は妹が4階からぶら下げて殺されそうになったのを止めた記憶があるし、父に至っては家を出る直前まで、痣だらけになるほどの暴力を振るわれていた。(怒鳴り声は夕方から明け方まで続き、物を投げる音や人を殴る時の力のこもった声が聞こえる中で不眠を加速させていた)
売春。
また、私が金策に四苦八苦していた時(バイト先で、パワハラまがいの上司(ヤンキーがチームで立ち上げたのかって感じのファーストフード店で、怒鳴られたりなじられたりするのが割と当たり前だった)にメンタルをボコボコにされてバイトが出来なくなった)母親に売春を唆された事があるのも一つの傷である。明言はされていない。「女子高生というだけで男相手に稼げる仕事があるだろう」と言われただけだ。私がそう捉え、実行に至ってしまった間抜けだったのが原因ではあるが、間違いなくその言葉が最後の一押しになったのだ。
実はこの言葉を言われる少し前から、出会い系サイトに登録していた。というか、まだ出会い系サイト、という名前が知られ始めたころだったし、正確に言えば『大手企業が運営するコミュニティサイト』だった。(実際に男女でのマッチングだけではなく、女性専用板、男性専用板などもあるサイトだったし、そこに辿り着いたのは『メル友募集』という検索だったと記憶している)
女子高生である私に、当然成人男性がちやほやしてくる。それを察したり察しなかったりしながら、セックスを目的としていないように見せかけた男性と雑談をして楽しんでいただけだった。時々そういう誘いも来るが、ネットでの出会いは危険である事を、ダイヤルアップ回線の時代から叩き込まれていたので、それらはきちんと排除していた。その時までは。
母に言われて私が取った行動。それはセックスを求めてくる男性の、隠語を使った待ち合わせに応える事だった。そうしなければ殺されると思ったのだ。だって家では常に怒鳴り合いと一家心中の仄めかしがあったし、それまでの幼少期で母がその行動に移そうとした光景は何度も見た事があったのだ。
中にはそれまで親しかった相手もいたが、少し仄めかすと、全員が全員、待っていましたとばかりに飛び付いてそういう関係になっていった。居住地が遠い場合はテレフォンセックスやチャHになった。
幸か不幸か、見目が悪い私でも女子高生というブランドタグが付いていれば買い取る人間は尽きなかった。そのうち、道端で目配せしたら買い手がつく場所も理解したし、その合図や仕草も覚えた。が、見目が悪い事を理由に出し渋られる事も、酷く暴力的な行為を合意なく行われる事も、なんなら、帰り道、別の男になにも打ち合わせもなくホテルに引き摺り込まれ暴力を振るわれた事もあった。元々暴力にある程度耐性があった私はあっという間にそれらを受け入れていた。多少血が出ても、内臓がじくじくと痛んでも、ほとんどが数日すれば治っていたからだ。
受け入れていたというより、痛みや恐怖に襲われた時のやり過ごし方をよく知っていた。後年調べて、それが私の編み出した特殊技能ではなく、すでに『離人症』という名前が付いている脳の防衛機構だと知った。親の虐待でも知らない人間による性暴力であっても、自分から1メートルかそこら離れたところから、幽体離脱のように俯瞰して自分を見ることが出来るのだ。時々、痛みで引き戻されることはあるが、それもどこか他人事のような痛みになって、またいつのまにかそばに立っている、といったのが当たり前になっていた。
この金は親に見せるための金(さすがに後ろめたさで、あくまでも日雇い派遣だと称していたのだが)のいくらかを除いて全てネットカフェに消えた。行為自体は太客でもない限りは長くても2,3時間程度で終わるので、あとは門限の22時までネカフェに隠れていたのだ。家に帰ると親が何かの拍子に怒り狂っていたし、その流れで殴られる事も度々あったから、なるべく家の外に身を置いていたのだ。なので、ネカフェ代と軽食、あとは課金とか、そういったものに消えて何も残らなかった。そもそも、二束三文でしか売れなかったし。(一人当たり交通費込みホテル別3,000円〜よくて1万円とか、そんなんばかりだった。これには撮影やアフターピル代なんかも含まれるし、ヤった後にダッシュで逃げられた事も多々ある。ネット上を探せば、当時の私の動画が見つかるかもしれない)
親の告白。
怒涛のような人生も、フルタイムである程度働いて金を稼げるようになり、ついでに女子高生ブランドが剥がれたので客も取れなくなり、父親が宝くじを当てて心中については保留になったので、一瞬だけ落ち着いた時期があった。20代後半くらいだろうか。定期的に何かの琴線に触れて恫喝されることはあるものの、その辺りから母親と妹と3人で時々遊ぶ事があった。カラオケや居酒屋で遊んだり、同人誌を作ったり、Twitterで絡んだりといった事があった。
そもそも、家族全員がオタクであり、各々ジャンルは違えどオタクとしての共通点がある、親子関係でなければただの気のいいオタ友として遊べる人間だったのだ。親子でケイン・コスギやジェット・リーやおそ松さんにハマったりしていた。幼少の頃も、ドラゴンボールやうしおととらについての萌え語りを聞いていたり、女神転生、ベルセルクから宗教を紐解いたりすることもままあった。母も古いものだけでなく、たとえば青鬼なんかもホラー映画で実写化された事で興味を持ち実況を見たりしたらしい。そのくらい気軽に遊んでいた。
ある日、何度目かのカラオケで、唐突に、いや何か思うところがあったのかもしれないが、母がひどく錯乱しながら「本当は子供なんか産みたくなかった!」と叫んだ。私と、妹の前で。時代ゆえにかなり追い詰められた果ての結婚だったことは前々から聞いていたので、そうなんだろうな、という感想でしかなかった。それに、実状はどうあれ母親は母親として私たちをこの歳まで生き延びさせたわけだし、そこに何も情がないということはない、というのも理解していた。
ただ、2時間ほど泣く母親を見ながら、「それを口にするほど、私たちを“駄作”と結論付けたのだろうか」というショックと「それを口に出来るほど、私たちが自立したと判断したのだろうか」という、なんとなくもやのかかった安心感があった。どちらかというと前者の気持ちが大きかったかもしれない。この時点ですでに家を出るための計画は進んでいて、しかしまだ半分くらい非現実的な時期だった(出る先が見つかったのはかなり終盤になってからだったし、直前で引き返してもいい、と言われていた)のだが、これが恐らく、家を出る決定打になったのだと思う。
DV認定されず。
これは驚いた事なのだが、過去の虐待を踏まえた上での殴るフリや殴るという脅し、大きな物音を立てたり物にあたるという行為、四六時中続く恫喝、人格否定、行動の制限などによる支配、面前DVは、『夫婦間』や『未成年の子と親』の場合にのみDVと認定されるものであり、『成人した子と親』の間では暴力にすらならないようである。警察においては、というだけで、役所の方ではDVと認定されたので事なきを得たが、医者でも「未成年だったら児相という手があるけど……」と言われた。親のことをぶん殴るなり、(経済的に難しいと言っても)家を出たらそれで解決するからDVには該当しないらしいのだ。
これが一番の恐怖だった。30過ぎまで家を出る気すら起きなかった原因の一つである。警察が味方してくれるという保証がない状態で、児相や警察に行きたくなかったのだ。それはただ闇雲に母親を刺激するだけだろうし、それをなんとなく理解していたので(実際に私が虐待だと言っても親は私の頭がおかしいと言って聞かなかったので、多分正解だったのだと思う)行動に移せなかったのだ。
実はネカフェにいた時期に、オンラインゲームの中でふと愚痴をこぼした時、親切な人間(ギルドの人でもフレンドでもなんでもなく、通りすがりの人だったと記憶している)が、最寄りの警察に話を通してくれた事があった。その時も同じ理由で、警察には行かなかったのだが、当時だったらきちんと虐待なりDVとして認められたのか、と時々思う事がある。
ただ、19歳かなんか、その辺りの、行き場がなくなる年齢(児相では深刻な場合でもニュースで流れているように「まあまあ親子仲良くね」と済まされる場合が多いと聞くし、18歳までしか相談出来ないので、ちょうど保護された子供がよく路頭に迷うらしい)だったから、その時に相談していたら、今家を出るために奮闘するほどの気力もなく、多分、一生を諦めてあの家で過ごしていただろうと思う。もしかしたらどこかで自殺を成功させていたかもしれない。
どうせ誰も助けてくれない、と思っていたに違いないし、実際に私が家を出たのも、役所のDV相談にひょんなことから通されなかったら、一生叶う事がなかったと思っている。そのぐらい、親子関係というのは、ほとんど全てが愛情と絆というふわふわーっとした概念で、あらゆる事の免罪符になるのだ。
警察に行けばいいのに、と何度も何度も、何百回もあらゆる人に言われていた。そういう人間はそんな現実を知らない。
『親子としては二度と会いたくない』という結論。
そしてこの言葉が口から出た。(正確にはTwitterに呟いたのだが、私の脳は大体Twitterを出力装置としている)縁を切るつもりはなかったし、機会があれば、多少言い訳になる程度に箔をつけてから、家に顔を出すつもりだった。それを、諦めた。
顔を出しても帰るつもりはないのは元々だが(母が優しく私に謝ったその口で、分かり合えるかもしれないという淡い期待を何度も何度も裏切ったので、出迎えた数日後には元通りになるという確信がある)親子という関係でいるうちは、つまるところ、一生、親が私という子に理解を示すというのはあり得ないのだと、ようやく諦めがついた。
私は母が大好きだし、傷は痛いままでも、今更償って欲しいとか、一生謝って欲しいとか、殺してやるとか、そんな感情は何もないつもりだ。少しだけ理解して、離れて生きるのを許してくれればそれでいい。それでよかったけれど、親子という関係がそうさせてくれないのだ。恐らく母親は私の事を一生、親不孝者で、手のかかる子供としてしか見ないだろうし、そう見られているうちは、私は怖くて親に会う事ができない。この関係に、何かの拍子で変化があれば会う事ができるのだろうか。
家を出る時に、「こういった形で家を出る以上は、親の死に目に会えないという覚悟を決めてください」と言われた事がようやく腑に落ちた。もちろん会おうと思えば方法はある、というか、多分引っ越してはいないので私が向かえば普通に会える。ただ、そうしたらまた、親子という支配関係が強固なものになるだけなのだ。だから、帰ることは出来ない。
家を出る前日、おやすみなさいを言ってから、その後に、母とハグをした。(我が家では割と、母とならハグをするのはよくある事だった)そうしてもういちどおやすみなさいを言った。ちょっとめんどくさそうにハグをした母は、普段の気の良い母の声をしていた。その時の言葉は本当に普段通りの、他愛もない会話だったので覚えていない。
その後、何度も何度も悪夢の中で怒鳴られているはずなのに、今はもう他愛もない会話の中の、穏やかなあの声しか思い出せない。それが少しだけ救いである。