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小諸市は本当に新幹線駅設置に反対したのか?

公開以降の追記項目について

本件については、継続調査を行なっています。

【情報提供についてのお願い】
ご本人が確認、直接聞いた情報で、以下の情報があれば本記事へのコメントか、以下のX投稿にリプライいただけますと幸いです。

・小諸市における新幹線駅設置反対活動(内容、規模、時期など)

情報提供依頼のお願い

調査により新たな事実が判明した場合には、小見出しを追加して追記を行い、ここに更新日と内容を記載していきます。

疑問

「新幹線駅の設置により大発展を遂げた佐久市と、信越線特急の廃止により衰退した小諸市」という話を、聞いたことや目にしたことがあるでしょうか?

この話は、整備新幹線の功罪の例として、また両市の駅名騒動のオチとして、ブログやSNS、センセーショナルなタイトルの解説動画などで語られることがあります。

その中で、小諸市に新幹線駅が設置されなかった経緯として、以下のエピソードが語られる場合があります。

「新幹線駅は、佐久市ではなく小諸駅に併設する計画だったが、駅用地の一部が小諸城(小諸懐古園)にかかるため、市長や市民(又は市民のみ)が反対して流れた」

小諸城(小諸懐古園)の三之門。
小諸城のみならず、小諸市を象徴する史跡。
小諸駅の自由通路から上田方を見る。
確かに小諸城(左)と近いが……?

このエピソードについては、いくつかの解説動画等で公然の事実として語られていますが、以下の点で疑問が残ります。

  1. 小諸市は、市内へ駅誘致活動の実施や、ミニ新幹線案の推進、佐久駅(仮称)へ「小諸」の字を入れる要望など、新幹線の効果を十分把握しているが、用地だけの理由で反対するだろうか?

  2. 佐久市においても、誘致活動と同時に自治会の地区通過反対運動が複数行われており、反対運動の有無だけが駅設置を逃した理由とは考えにくい。

  3. 軽井沢駅や上田駅など、駅周辺の用地確保が難しかった駅では、在来線駅施設を縮小して新幹線駅を建設した例がある中、史跡である小諸城址の一部を破壊する計画が立案されるだろうか?

  4. 佐久市の駅誘致関連資料を調べてきた中で、小諸駅併設案や小諸市での反対運動や駅設置打診の記載を目にしたことがなく、また、県内の同じ地域に住んでいるが、そのような話を今まで直接聞いたことがない。

以上の理由から、小諸市の反対運動が実際に存在したのかの調査を行ってみました。


調査目標

今回、調査によって明らかにする点、目標は以下の通りです。

  1. 小諸市内での新幹線通過反対運動の有無

  2. 新幹線の小諸駅併設案・付近通過ルート案の有無

1については悪魔の証明になることから、一生かかっても終わりません。このため、当時の新聞記事、市誌、隣接する佐久市の資料、労働関連の活動記録等を確認し、可能な限り反対運動の痕跡を調べる方針となります。

北陸新幹線ルート選定の時系列について

北陸新幹線の高崎・長野間の建設に至るまでの経緯は非常に複雑で、複数の資料などを確認しなければ把握することができません。

以下の経緯は、北陸新幹線工事誌(高崎・長野間)、長野県の北陸新幹線関連資料、当時の信濃毎日新聞、当時の佐久市役所関係者や自治会長などの書籍によるものです。

軽井沢駅の代替駅の誘致合戦

1973年10月に北陸新幹線の高崎・長野間が、佐久地域を経由するルートに決定されて以降、技術的に軽井沢に駅が設置できないと公表されていたことから、距離的に1駅のみと予想された佐久地域内では、軽井沢駅の代替となる駅の誘致活動が激化していました。

佐久市は、佐久地域全体の発展に有利であることを理由とし、佐久市中心部への駅設置を求める活動を大々的に行いました。
小諸市、軽井沢町、御代田町は連合を組み、小諸市内の平原駅または、軽井沢町中心部から車で10分程度の信越線交点に、新軽井沢駅の設置を求める活動を行いました。

この誘致合戦は1981年まで継続しますが、当時の吉村長野県知事により、両陣営はルート一本化を一任するよう求められたことで決着を見ます。
これは誘致合戦が、地元の合意ができていないと見なされ、新幹線の着工時期に影響しかねないと判断した結果でした。

1982年3月になると、鉄道建設公団から新幹線の軽井沢駅設置を含むルート案(環境影響評価報告書案)が発表され、佐久地域には、不可能とされた軽井沢駅と、佐久市が誘致した佐久駅(現在の佐久平駅)が市内に設置されることとなります。
このルート案は、その後安中榛名駅の追加や新高岡駅の確定、加越トンネルルートの変更などがあったものの、基本的には現在の線路位置や駅構造を示したルートとなります。

不可能から一転して実現した軽井沢駅。
計画通り多くの旅客が利用する。
市民の長年の夢であった佐久平駅。
定期外(観光や出張)よりも、定期利用者の割合が高い。

ミニ新幹線案の出現と小諸市の逆転

ルートと駅が発表された半年後の1982年9月、国の財政が悪化していることから、北陸新幹線を含む整備新幹線5線の計画は凍結されてしまいます。

凍結はその後解除されますが、厳しい予算状況を考慮した運輸省(現国土交通省)は、整備新幹線5線の暫定整備案となる運輸省案を公表します。
この案での北陸新幹線長野区間は、通常の新幹線路線(フル規格)は高崎・軽井沢間のみ、軽井沢・長野間は在来線を改軌したミニ新幹線方式、長野・糸魚川間は全く整備されないというものでした。

この案については、新幹線駅が無くなる佐久市と飯山市が特に強く反発した一方、小諸市は一転してミニ新幹線の停車駅となり、並行在来線の経営分離もなくなる事から賛成を表明し、地域内で大きな温度差が生まれます。
※並行在来線の経営分離の方針は、国鉄時代から表明されており、正式な申し合わせとなったのはJR化後となる。

また、これには御代田町も賛同していますが、新幹線停車駅獲得よりも、並行在来線の自治体負担に対する反対という側面が強い物でした。(佐久平駅物語より)

フル規格化へ

1988年の政府与党申し合わせでは、当時長野県が冬季五輪開催地に立候補していた事を考慮し、条件付きでフル規格化を考慮した高崎・長野間の着工が決まります。
その後、1989年には高崎・軽井沢間、1991年には軽井沢・長野間が着工されますが、この時のフル規格化の条件には、沿線自治体による平行在来線の経営分離への同意と、長野県が冬季五輪開催地に選ばれる事が含まれていました。
 しかしフル規格化については、並行在来線の負担を問題視する小諸市、御代田町と、当時の財源スキームでは建設費負担が大幅な増額となるJR東日本が反対します。

最終的に長野県は、御代田町、小諸市の順でフル規格化と並行在来線の経営分離の同意を取り付け、1998年の冬季オリンピック開催地と、長野までのフル規格化を獲得します。
その後、小諸市、佐久市による駅名などの一悶着はありましたが、新幹線の建設は驚異的な速度で進み、予定通り1997年10月に高崎・長野間が開業しました。

反対運動についての言及

結論から言ってしまうと、小諸市内での反対運動に言及しているのは、インターネット上だけであり、その他資料では発見できませんでした。

小諸駅にならなかった理由については、小諸市ではなく佐久市に新駅が設置された理由の節に記載しています。面倒な方はそちらを先にお読みください。

ネット上での言及

まずはネット上で、どの程度言及されているかを調べてみます。

シンプルisベストな検索方法

簡単にGoogleで「小諸 新幹線 反対」と調べると、まず初めに「反対運動はなかったのではないか?」という、私と同じ疑問を持った方のはてな匿名ダイアリーがヒットします。

そして、反対運動があったという内容で、Yahoo知恵袋、個人ブログ、Youtube解説動画などが続きます。
特にYahoo知恵袋でのやり取りは非常に多く、ヒットしたページは100件近くにのぼります。

これらネット上での言及については、新幹線ルート決定の時系列や経緯など、事実と異なっている点が多く、参考書籍や資料へのリンクなどもない物がほとんどです。

紙媒体・論文等での言及

紙媒体については、主に以下のもので調べます。

  1. 北陸新幹線工事誌(高崎・長野間)

  2. J-STAGEによる論文検索

  3. 各図書館の検索による関連しそうな書籍(新幹線、懐古園、小諸城など)

  4. 佐久市関係者による新幹線駅関連書籍

  5. 信濃毎日新聞記事(信毎年鑑・信毎データベース)

北陸新幹線工事誌(高崎・長野間)

北陸新幹線工事誌(高崎・長野間)は、工事の経緯のみならず、ルートや駅位置の選定経緯なども載っている書籍です。

まず「佐久平駅は小諸駅での反対運動により代替設置された」という主張が真であると仮定すると、駅選定理由や、ルート選定に何らかの言及があると考えられますが、小諸市での新幹線駅設置反対運動への言及はありませんでした。

後述しますが、駅の選定では、駅前広場や保守基地用地の確保の容易さと、周辺開発計画の有無が重視されたと記述されており、小諸市での新幹線駅設置反対運動等の記録はありません。

本工事誌では、各自治体の要望や軽井沢町における立木トラスト運動などの反対運動も記載されており、記載されていない点は疑問が残ります。

J-STAGEによる論文検索

J-STAGEでの本文検索を使用し、「小諸 新幹線 反対」または「小諸 新幹線 懐古園」、「小諸 新幹線 小諸城」で検索しましたが、小諸市での新幹線駅設置反対運動が記載された論文は発見できませんでした。


また、反対運動でヒットしたわけではありませんが、前回記事の作成で参考にさせていただいた以下の論文でも内容を確認しました。

新幹線建設と近代都市「佐久平」の形成 ―都市計画をめぐる3つの分析軸― (武者 忠彦様著)

空間統合の高速化がもたらす不均等発展 ―北陸新幹線建設と、小諸・岩村田の都市間競争を例として― (井野 俊介様著)

結果として、小諸市での新幹線駅設置反対運動の記載はありませんでした。

特に後者の論文は、小諸市の新幹線誘致運動における政策的不備とその後の影響が書かれたものであり、ここに記載されていない点は疑問が残ります。

関連しそうな書籍・資料

関連しそうな資料として、まず以下のものを調査します。

・北陸新幹線環境影響評価報告書案(長野県)昭和57年
・長野県庁の北陸新幹線関係資料
・小諸市誌

最初の2つについては、前回記事作成時に長野県立歴史館において資料請求を行い確認していますが、小諸市での新幹線駅設置反対運動については確認できませんでした。

また、小諸市誌においては「近・現代篇」を実際の書籍で確認し、その他の篇については国立国会図書館デジタルコレクションにより内容の検索と閲覧を行い調査を行いましたが、小諸市での新幹線駅設置反対運動については確認できませんでした。

また、小諸城(小諸懐古園)と新幹線に関連する書籍についても検索を行いましたが、小諸市での新幹線駅設置反対運動については確認できませんでした。

これ以外に、市立小諸図書館を訪問し、労働組合関係の反対運動がなかったか確認するため、「佐久地区評運動史2(1976年-1988年) (​佐久地区労働組合評議会)」を確認しました。(小諸市も佐久地区に含まれる)
小海線合理化、活性化に対する運動、佐久地域における各種環境問題関連の運動などの記載はありましたが、小諸市における新幹線駅設置反対運動については確認できませんでした。

佐久市関係者による新幹線駅関連書籍

佐久市関係者による新幹線駅(佐久平駅)開業までの経緯を綴った書籍は、以下のものがあります。

・佐久平駅物語(角田 邦男様著)
・新幹線佐久平駅ができるまで (神津義久様著)
・夢が実現 北陸新幹線佐久平駅開業までの歩み(北陸新幹線佐久平駅開業記念誌編集委員会編)

前2誌についてはそれぞれ、佐久平駅開業前後の佐久市助役と、佐久市長土呂(佐久平駅所在地区)区長による回顧録であり、小諸市連合と佐久市による新幹線誘致運動の経緯や、佐久市内の反対運動、小諸市との駅名による係争などが事細かに記載されています。

両誌は、市役所と区長からの視点という差異はあるものの、書かれている内容がほぼ同一であるため、確度の高いものと考えられます。
しかしながら、小諸市における新幹線駅設置反対運動については確認できませんでした。

信濃毎日新聞記事

長野県で主流の信濃毎日新聞を対象として、各年ごとのニュースや市町村動向をまとめて発行される「信毎年鑑」と、新聞記事と紙面をデータベス化した「信濃毎日新聞データベース」を使用して検索しました。

信毎年鑑は紙媒体であり、大正期から現在まで数百ページの物が毎年発刊されています。
このため、北陸新幹線の佐久地域通過が確定した1973年〜ルート決定の1982年までの確認は可能ですが、大変な労力が必要です。

軽井沢駅設置については、鉄道建設公団の仁杉巌総裁が主導した経緯があるため、氏が総裁に就任した1979年〜1982年までの4冊を調査しましたが、小諸市における新幹線駅設置反対運動については確認できませんでした。

また信毎データベースにおいては、過去の紙面、記事が検索可能であり「新幹線 小諸」というワードで検索を行いましたが、小諸市における新幹線駅設置反対運動については確認できませんでした。

新幹線の小諸駅併設案・付近通過ルート案の有無

実はルート案は割とすぐに見つかる

小諸駅付近の通過ルート案については、JREA 1999年1月号における仁杉巌氏による特別寄稿記事「高崎~軽井沢間の新幹線線路の選定にからんで考えたこと」で確認できます。(国立国会図書館デジタルライブラリーにおいて閲覧可能

本記事では、軽井沢駅設置に関連する経緯が記載されおり、併せて高崎・上田間のルート案が示された図があります。

ルートは、高崎から12‰勾配を使用したルートと、30‰勾配を使用したルートの二つが記載されています。この30‰勾配ルートは、現在の北陸新幹線のルートと異なり、佐久市内は現在よりも北側でカーブし、小諸駅付近を経由するルートで描かれています。

また、駅位置の案と考えられる丸印も記入されており、これには小諸(小諸駅付近)と平原(平原駅付近)、御代田(現御代田駅の東付近)、西軽井沢(現信濃追分駅付近)、中佐都(現中佐都駅付近)、佐久ICがあります。

以上のことから、軽井沢駅設置決定直後には新幹線が小諸駅を経由できるルートが検討された可能性があることがわかります。

しかしながら、仁杉総裁下の鉄道建設公団において、このルート案が沿線自治体に漏れたのかは疑問です。
仁杉氏は、中央本線の塩嶺トンネル工事において、ルート案が沿線に漏れてしまい、一気に反対運動が発生した経験があることから、北陸新幹線のルートについては環境影響評価報告書案発表直前まで内密にしていました。(信濃毎日新聞記事による)

調査結果からの結論

以上の調査から判明している事実は以下の通りです。

  1. ネット上においては、小諸市による新幹線駅設置反対運動があったとされる話が多い。

  2. 現在残されている文献、資料においては、反対運動についての記載がされているものは発見できていない。

  3. 小諸駅付近を経由する新幹線ルートについては、公団関係者によって作成された図は存在する。


ここからは、調査結果から推測される説になります。

  1. 小諸市における新幹線駅設置反対運動は存在しないか、運動が記録されない程度の極めて小規模な物であった。

  2. フル規格化への反対や、佐久市への駅名要求などと合わせ、与太話として広まった可能性が高い。(あるいはフル規格化反対+ミニ新幹線駅化が混同されている)

  3. 小諸駅経由ルートは、公団内で検討はされたものの、当時は公にされず採用されなかった。これは地理的、技術的、政策的な理由による不採用であり、反対運動が不採用に繋がった可能性は低い。

以上となります。
本調査は個人的に行なった物である上、「ないことを証明する」という、典型的な悪魔の証明です。

調査に不備があるかもしれませんので、反対運動の記録等がある方は、ご指摘くださるとありがたいです。

小諸市ではなく佐久市に新駅が設置された理由

1.誘致活動の差

小諸市における新幹線誘致については「新幹線は軽井沢通過が不可能であるため、代替の新軽井沢駅を軽井沢町などと誘致する」という方針でした。この新軽井沢駅は、前述のように信越本線の平原駅か、軽井沢中心部まで車で10〜15分程度の信越本線付近という方針であり、小諸駅併設の誘致活動は行なっていませんでした。

一方の佐久市は「佐久市内への新幹線駅設置」という方針で1970年代前半から継続して誘致活動を行なっていました。
また1980年には、新幹線が市内を通過するルートを仮定し、市内の交通体系や土地利用計画を示した「高速交通対策マスタープラン」を制定するなど、先走ったかのような政策で、市を挙げての新幹線の誘致活動を行なっていました。

また、長野県庁においては、小諸陣営の新軽井沢駅は軽井沢町への経済効果のために有効であることを認識しつつも、佐久市内へ駅を設置した場合では、新たな開発により地域経済の底上げが期待できることから、明確な方針を示めせずにいました。
結局、両者の誘致活動は、環境影響評価報告書案が発表される前年の1981年に長野県知事にルートを一任するまで継続していますが、中央省庁へ明確なルートを提案した話は見つかっていません。

以上から、公団内で軽井沢駅が設置可能になった以上、代替の新軽井沢駅を推進していた小諸市ではなく、市内への積極的な誘致活動を行なっていた佐久市が、土地や道路アクセス面(後述)でも有利であると判断され、佐久市長土呂への駅設置が確定したと考えられます。

2.駅予定地周辺の土地利用状況とアクセスの良否

佐久市長土呂への駅設置選定については、軽井沢・上田間のルート・駅選定時に以下の理由により選定されたと記述されています。

(前略)
信越本線の特急停車駅である小諸に比べて、駅の選定節で後述するように、交通網、周辺開発計画等の要因に加えて、駅前広場、保守基地等用地の確保の容易さから、佐久市長土呂付近に新駅を設置することが有利と判断されたため、ここを通過ポイントとしてルートを選定した。
(中略)
佐久市は、国道、主要地方道が東西及び南北に交差しているのに加え、上信越自動車道のインターチェンジも設置される予定であること、また在来線(小海線)とも接続可能で、周辺の小諸市、御代田町等の周辺地域とのアクセスの便がよく、
(後略)

北陸新幹線工事誌(高崎・長野間)第1章 線路選定より引用

このため、小諸駅ではなく佐久市長土呂が設置されたのは、開発可能エリアや、アクセス道路、高速道路のインターチェンジ、開発計画の有無などが評価されたことが理由の一つであるとわかります。

小諸駅付近と佐久市長土呂を比較すると、小諸駅付近は既成市街地や小諸城が隣接しており、計画されていた保守基地(車庫やバラスト置場。開業時には佐久市の交渉により軽井沢駅に統合)の設置まで考慮すると、駅用地の確保が困難であることが推測できます。

1981年の小諸市街の航空写真。
駅周辺には中心市街と小諸城が広がっており、利用可能土地が少ない。
2024年の小諸駅前広場。
比較的小さな駅前広場。

一方の佐久市は、駅設置場所はほとんどか農地です。これらは、当初は農家からの反対運動が発生しましたが、1990年代に入ると、農家の高齢化が進んだことや、佐久インターチェンジ付近での土地活用による増収例が広く知られたことにより、比較的スムーズな土地収容が実施されました。

1981年の佐久市長土呂の航空写真。
当初の駅位置は東京方(右上)に100mほど寄った位置であった。
2024年の佐久平駅前広場。
広大な駅前広場が形成された。

また、佐久地域の広域アクセスを考慮した場合、小諸駅周辺は高速道路のインターチェンジや、南北に横断する国道141号までは距離があります。

一方、佐久市長土呂は、当時建設が進んでいた上信越道佐久インターチェンジや、建設が決定していた中部横断道、国道141号などが駅周辺にあり、自動車アクセスが良好であることがわかります。

小諸駅、佐久平駅周辺の地図。紫は新幹線、青は在来線(しなの鉄道線、小海線)
緑は高速道路、赤は国道(点線は旧道)
佐久平駅付近の国道141号(バイパス)。
新幹線開業に合わせる形で、アクセス道路として開通した。

3.小諸駅経由の場合の地質がトンネル建設に不向き

佐久平・上田間のルートについては、千曲川北側(小諸市街側)は浅間山などの火山泥流地帯でトンネルを建設することが困難な一方、南側(佐久市側)は安定した地質の台地が連続することから、トンネル建設が容易であるとして、4本のトンネルで上田駅手前まで抜けるルートが選定されています。

小諸駅、佐久平駅周辺の地形図。紫は新幹線、青は在来線(しなの鉄道線、小海線)
地質については大まかに色付け。

トンネル設置が図られたのは、積雪や、高架や盛土で市街地を通過する際の住居への騒音、日照問題を避けるためとされています。
小諸市・上田市間は、主に千曲川北側に市街地が断続しており、この点でも小諸駅設置では不利であると考えられます。

まとめ

別件で、北陸新幹線のルートについて図書館や各種資料で調査を行うにつれ、どのような話でも気になるようになってしまいました。

今回の真偽を調査した結果として、新たなルート案や時系列の空白が確認できたことは幸いです。
また自身の目、足で、信頼できる記録や資料を調査することの重要さを改めて実感できました。

なので、皆さんもこの記事を鵜呑みにせず、自身で図書館に行き調べてみましょう(身もふたもない)

私もやったんだからさ?

参考文献・サイト


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