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映画『茶飲友達』鑑賞レポート

「みんな寂しい、だから〝ファミリー〟が必要だった」

正しい在り方とは何なのか、家族とは何なのか。
映画『茶飲友達』

2013年10月に起きた高齢者売春クラブ摘発のニュースに着想を得て生まれた社会派群像劇。

高齢者の売春クラブ

〝高齢者専門の売春クラブ〟この映画のあらすじを初めて見たとき、そのワードに度肝を抜かれた。そして同時に「高齢者の孤独につけ込み、売春を強要した若者の末路を描いた作品なのだろうか」と考えた。

だけど映画を見終わった今、私はあのときの自分の頬を引っ叩いてやりたい気持ちでいっぱいになっている。セカンドライフに関わる事業に携わっている自分が、どうしてそんな薄っぺらい考え方をしているんだと。

※ここからは映画の内容に触れていくので、注意して読んでいただきたい。

突きつけられる孤独

作中のとあるシーンで、忘れられないものがある。

伴侶がおらず、両親の他界によって天涯孤独となった「松子」が、スーパーで万引きしようとしたところを主人公の佐々木マナに助けられた後、自ら命を絶とうとするシーンだ。

松子は首を吊ろうとするが、足がすくみ、中々椅子から飛び降りることができない。そうしているうちにスマホが鳴って、松子はスマホを確認しに部屋へと戻る。

このとき、私は「知人からの連絡を受けて、松子は自死を思い留まるのだろうか」と考えていた。だが、松子が開いたラインのトーク画面に現れたのは、知人からの連絡などではなかった。

「クーポン配信のお知らせ」「お得情報のお知らせ」

見えた限りで、松子のラインには企業からのお知らせメッセージしか届いていなかった。

自死に至るまで追い詰められていたにも関わらず、松子にはそれを相談できる友人が1人もいなかったということだ。

きっと若い頃であれば、松子にも友人の1人や2人いただろう。だが作中で「松子はずっと1人で年老いた両親の介護をしていた」という過去が描写されているシーンがあった。

おそらく、介護で手一杯になるうちに、若い頃の友人や知人との縁が切れ、気が付いた時にはひとりぼっちになっていたんだろう。

今の松子には「助けて、辛い」と声を上げる場所が、どこにもなかったのだ。

このたったワンシーンに、松子の孤独の全てが詰まっていたように思う。

歪な形のコミュニティ

その後、松子はなんとか自死を思い留まり、主人公の佐々木マナに連絡をして「ティーフレンド」で働き始めることになる。

ティーフレンドで働き始めてからの松子の変化は、劇的なものだった。

「売春組織」という、世間一般から見れば歪な形のコミュニティの中で、松子は間違いなく希望を取り戻していた。それは松子に限った話ではなく、ティーフレンドにいる「ファミリー」はみんな、生き生きと笑って過ごしていた。

誰かに必要とされる喜び。コミニティに属しているという安心感。異性に「女」として求められることで承認欲求が満たされ、ティーフレンドにいる女性たちはキラキラと輝いていた。

サービスを受ける男性たちも同じことで、妻を亡くし孤独に生きる男性が若葉(松子の源氏名)と出会い、子供のように若葉に甘えるシーンでは胸が震えた。

老人ホームで暮らす男性が「息子はここの費用を全て賄ってくれている、だけど一度も、会いにはこない」と寂しさを打ち明けたシーンでは、やるせなさに唇を噛んだ。

この男性の息子は、息子としての義務を全うしている。きっと男性自身もそれをよくわかっている。だからこそ、きっと胸の内にある寂しさを誰にも打ち明けられずにいたんだろう。

これだけしてもらっていて「寂しいから会いに来てくれ」なんて、言えるわけがない。ましてや、相手は血の繋がった息子だ。親としてのプライド、子供にこれ以上負担はかけたくないという愛情。お茶をすすりながら、堪えきれなくなったように涙を流す男性の背中に、複雑に絡まり合う感情の一端が見えた。

老いることのない感情

これは、誰もが一度は感じたことのあるものだと思うが「子供が思うほど、大人は大人じゃない」。

幼い頃、大人とは「寂しいなんて子供のようなことは感じずに、1人でも生き生きとしている」ものだと思っていなかっただろうか?

だが実際に自分が大人になってみれば、そんなことはないと感じたはずだ。

感情は、老いることがない。どれだけ歳を重ねても、「寂しい」を感じなくなることはない。

ただ「寂しい」と思う心を隠すか、隠さないか、それだけが大人と子供の違いなんだと思う。「大人だから」「親だから」「子供に心配をかけないように」「いい歳なんだから」人それぞれ、様々な理由があって孤独を感じる心を隠す。

ティーフレンドを発足したマナは、その「隠された孤独」に真正面から切り込んでいける女性だった。寂しいと思う心はここにあるんだと叫ぶことができる女性だった。

マナの境遇も複雑なもので、マナの過去を知れば知るほど「血の繋がった家族だからこそ」できないこともあるんだと感じた。
血の繋がった家族に埋められないものがあるなら、血の繋がりのない「ファミリー」で埋めればいい。

それがマナの考え方なんだろうと思った。

固定概念の崩壊、物語の崩壊

この時点で私は「この生き方の何がいけないんだろう」という気持ちになっていた。

孤独に苛まれ自死すら考えていた女性たちが、希望を取り戻し、そして人に希望を与え生きている。それの何がいけないことだというのか?

だが、私のそんな思いとは裏腹に、物語は次第に崩壊へと向かっていく。

とあること(ここで何があったのかは、ぜひ映画本編で見ていただきたい)がきっかけで、組織は崩壊することになる。

ティーフレンドの活動が明るみになった際、これまで支え合ってきたファミリーが散り散りになっていくシーンがある。(このあたりから、私は息ができない程に泣いてしまい、嗚咽で座席を揺らさないように必死だった)

途端に手のひらを返し、マナを責めるファミリー、マナを置いて逃げるファミリー…。あまりに残酷で、リアルな描写だと思った。

血の繋がっていないファミリーにしかできないこともあれば、血の繋がった家族にしかできないこともある。

共に「罪を背負う」ことは、血の繋がっていないファミリーにできることではない。

どうしてこんなことになってしまったんだ、と、何度も考えた。

「ルールだから」とティーフレンドを摘発した警察に恨みも抱いた。「そのルールから落っこちた人もいるんだよ」と叫んだマナのことが忘れられない。

最後、前出の「妻を亡くし孤独に生きる男性」が、ソワソワと浮き足立った様子で服を選び、ティーフレンドに電話をかけるシーンでこの映画は終わる。

きっと、男性は若葉(松子の源氏名)に会いたかったんだろう。

男性は若葉に会うために少ない年金を貯めて、服を選び、今日という日を楽しみに毎日を過ごしていたのかもしれない。

だが、当然電話は繋がらない。

「ティーフレンドの若葉」という女性はもう、この世のどこにもいない。

縁側で1人、繋がらなかった電話機を握り締める男性の背中が、今でもまぶたにこびりついている。

だれが「悪」なのかー見出せない答え

売春斡旋は違法だ。そんなことはわかっている。マナも、ティーフレンドのファミリーも、当然わかっていた。だから、逃げた。

なら、違法だとわかっていながら、ティーフレンドを発足したマナが悪いのだろうか?

そして違法だとわかっていながら、ティーフレンドに働いていた女性たちが悪いのだろうか?

違法だとわかっていながら、ティーフレンドを利用した男性たちが悪いのだろうか?

じゃあ、彼女たちの「孤独」はどうすればよかった?

孤独を隠したまま、孤独に苛まれ、心を病み、死んでいけばよかったのだろうか?

そうまでして、ルールを守らなければいけなかったのだろうか?

映画を見終わると、私の頭の中には濁流のように疑問が湧いて、止まらなくなった。だがそのどれもが、今でも、答えを見出せないままでいる。

きっと、問題なのは「ルールを破ったこと」ではないんだと思う。

当然、売春斡旋は違法だ。売春斡旋という行為を擁護するつもりはない。それによって傷ついてる人々がいることも事実だからだ。

問題なのは「売春斡旋という違法なサービスの上でしか孤独を埋められない」という現状なんだと思う。

最後に

この「茶飲友達」という映画は、きっと、見る人の境遇、年代、考え方によって見方が大きく変わってくる物語だ。

マナに感情移入をするのか、ティーフレンドを運営しているその他の若者に感情移入をするのか、ティーフレンドで働く女性たちに感情移入をするのか、サービスを利用する男性たちに感情移入をするのか。

はたまた、サービスを利用する男性たちの家族に感情移入をする人もいるだろう。

感情のままに書いてしまったが、これだけ心を動かされる映画を見たのは、久々のことだった。脚本、演出、演技。どれをとっても、ここ数年で一番の作品だったと感じる。

この時代を生きる全ての人に見て欲しい映画だと心の底から思う。年代も境遇も関係なく、全ての人に。

http://teafriend.jp

最後に、この作品を生み出してくださった外山監督、素晴らしい演技を見せてくださったキャスト、映画に関わったスタッフの皆様には心からの感謝を伝えたい。

ありがとうございました。


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