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やっぱりパリスのエッフェル塔。

私は自分に関係するものを推し量る時、過小評価することでしか量ることができない。

成功すれば嬉しい。
失敗したら「やっぱり」。

小さい頃、悔しいという感情がわからなかった。
正確には、人生の大事な局面で。
たとえば毎日没頭してたゲームで負けたみたいなことがあれば、ちゃんと悔しさを感じていた。
けれど、学校のテストとか、部活の試合とか
悔しいという感情が一切なかった。

真剣に打ち込んでいなかったからだというのも正しいと思う。
学校のテストで勉強したのは大学に入ってからだったし
部活も中学生の時は身体がついてかなかったからあまり参加していなかった。
でも、自分が出てない試合にも悔しさを感じられなかったのは、真剣さが原因ではないと思う。ちゃんとチームは応援していたから。

この夏、私は大事なインターンに参加してきた。
結果から言えば私は失敗した。
1週間にわたって、ほとんど徹夜続きで打ち込んだ。
それくらいしないとついていけなかっただけなんだけど、熱量以前に方針を間違えた感じだ。
だから失敗した。
この時、私は久しぶりに悔しいと感じた。
その感覚が肌からも記憶からも消えなくて
脳中引き摺り回しの刑を喰らっている。
もうしばらく経つのに。

私は乗り越えるためにも
この気持ちを深掘りすることにした。
悔しいと感じることがなかった自分が
人生でしっかりと悔しさを感じた瞬間だから。

ポテンシャルがあったのに
できなかった時に悔しいと感じる。
これが私の考え。

細かいことを言うと実現可能性があったのにといったところかもしれない。

自分が、自分に対する認識として
ポテンシャルが高くない場合、
自分を過小評価している場合には悔しくない。だってできないと思ってるから。

かなり納得がいった。
自分の中から出てきたものだから当然かもしれないけれど。

私は大学受験に失敗している。
それでも悔しくなかったのは、無謀な挑戦だったから。自分では、いや、成績を見れば、当然に受からないことがわかっていたから。

部活の試合もそうだ。
自分のチームを応援していても
圧倒的に敵わない相手がそこにいたから。
きっと、いつもは勝てる相手とか、拮抗した実力の相手とかだったら、悔しさを感じていたんじゃないかと思う。

この考え方は正しいのかな。
私は昔から競争が嫌いだったから
悔しさを感じにくいのだろうし
競争が好きで生きている人にとっては
ポテンシャルなど関係ないのかもしれない。

私は自分に関係するものを推し量る時、過小評価することでしか量ることができない。

成功すれば嬉しい。
失敗したら「やっぱり」。

自分を過大評価するよりいいじゃんって思っちゃうんだ。
そうしないとやってけいないダメンタル。
𝘳𝘦𝘪

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