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第83回 『ユリシーズ』第6話『ハデス』その3

”午後、俺の家に奴が来る”

フィリップ・クランプトンの銅像を過ぎた時「やあ今日は」、カニンガムが外を見ながら言った。
「だれ?」「ボイランだよ」

”なんて偶然!”

ブルームの独白に出てきたやつとは、今そこにいる男、名はボイラン(噂をすれば〜の応用編?)。妻モリーの仕事の世話をしる興行師で、多分不貞の相手。

 焦ったブルームは急に下を向きもじもじ。

”粋な姿(ボイラン)。俺の爪だなー(爪)。あんな奴のどこが(ボイラン)。綺麗に整えてあるなー(爪)

 ボイランの存在を追い払おうとして自分の爪に意識を向けるが、やはり奴と妻のことを考えてしまう感じ。

 ボイランは軽く挨拶しただけで、すぐに見えなくなった。
助かった。


「奥さん、演奏旅行の話はどうなったの?」
 パワー氏がブルームに質問した。
「うまく行ってるようです。旅行だから、あっちで赤字になってもこっちで黒字とかね」「なるほど」
「君もついてくの?」
「いえ、ちょっとクレア州に用があって(伏線)。まあ興行の方は問題ないでしょう。こっちでやる時はJCドイルジョン・マコーマックとも共演するんです。みんな一流です」

 これは1904年8月に(今日は6月16日)ダブリンのエンシェント・コンサート場で行われた実際の音楽会をモデルにしている。空想の人物モリー・ブルームの元になった歌手は作者ジェイムズ・ジョイスだ。そこで彼はドイルやマコーマックと共演している。
この様子はジョイスの伝記映画『ノーラある小説家の妻』にも描かれている


 あ今気づいた。作者ジョイスが、モリー・ブルームの職業設定を歌手にしたのは自分の体験をもとにしたんだな(ジョイスは歌が得意だった)。
自分の分身スティーブン・ディダラスからは歌手の設定は削り、代わりにモリー・ブルームにつけた。そういうことか。

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「それに奥さんも、だろ?」パワー氏が言って微笑んだ。
 ブルームは謙遜しながらも微笑み返した。

 馬車はスミス・オブライエンの銅像を横切った。

”へぇ、良い男じゃないか”
ブルームはパワーのことをそう思った。
ブルームは他の3人とそれほど親しくないらしい。ブルームはユダヤの家系、他は皆カトリック。3人は名前で呼び合っているのに対しブルームは苗字で呼ばれている。

 ダニエル・オコンネルの銅像を過ぎたところでカニンガムが言った。


「ドットだ」
 長身の男が背中を丸めて歩いていた。
「あいつの背中を神様がへし折ってくれればいい」
サイモン・ディダラスが言った。
パワーがくすくす笑った。
「でも我々は一人残らず彼の世話になったさ」
カニンガムは言ったが、ブルームと目が合うと「まあ例外もいるが※」。

 このドットという男は名前をルーベン・ドットと言う事務弁護士。サイモン・ディダラスはドットに負っていた多額の負債により財産を競売にかけることになった。
これはジョイス家に起きた事実をもとにしている。ルーベン・ドット氏は当時実在した人物で、本名もそのまま使われている。サイモンの元ネタであるジョイスの父ジョン・ジョイスは彼から負った負債により土地財産の競売を余儀なくされていた。
 この顛末は前作『若い芸術家の肖像』でも、スティーブンの子供時代の思い出として描かれている。
ドット氏は、ジョンが土地売却で得たお金を根こそぎ取り上げた。

 父ジョンと息子ジョイスの怒りは生涯消えることはなく…(続く)。

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※ドット氏のような守銭奴(?)を、キリスト教徒の中には「あいつはユダヤ人」と、根拠もなく金持ちへの妬みとして使う人たちがいる(極論すると宗教の違いは関係ない。問題は「自分達とは違うやつ」が気に入らないだけ)。ユダヤの血が流れるブルームは、他の3人と見えない壁がある。
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「ドットと息子のゴシップ、あれは傑作でしたね」ブルームが言った。
「船員の話?」カニンガムが言った。
「そう」
「なになに? 俺知らない」
「女がらみでしてね。息子を小島に連れて行く途中で海に…」
「嘘突き落としたの⁉︎ 」
「いや。息子が逃げようとして自分から飛び込んだんです」
「ジーザス! そりゃひどい」
「でしょ」
「それで死んだの?」
「まさか。船員に助けられました」
「親父の目の前で。市民の半分は見物に来てたぜ」
「そしたら後日ドットが、息子を助けてくれたお礼だと言って船員の妻に渡したのがフロリン銀貨一枚」
 それを聞いたパワー氏はため息をついた。
「フロリン銀貨一枚だよ! 息子の命がフロリン銀貨、たったの一枚!」
「たまげた」「いやまだ多いくらいだ」
車内に笑いがこだました。 


 これも事実をもとにしている。ドット氏の息子ルーベン・ジュニアは失恋の痛手(らしい)から海に飛び込んだ。モーゼスという名の人夫が彼を助けた。そのせいでモーゼスは風邪をこじらせしばらく入院した。後日モーゼスの妻がドット氏の元へ行くと、感謝の言葉もなく2シリング6ペンス(フロリン銀貨一枚分)を渡された。

 この事件は1911年12月2日新聞記事になる。

 そう、1911年の出来事だ。このドット親子生涯の恥辱を、ジョイスはわざわざ1904年の出来事とし小説のネタにした。本名のまま。ちなみに息子の方ははジョイス小学生時代(!)のクラスメイト。

 …この話にはまだ続きがある。
 『ユリシーズ』が出版されしばらくして、イギリスの放送局BBCが『ユリシーズ』第6話『ハデス』をラジオ朗読した…。

「わぁー! 聞いてられないっ!」

息子ドットは放送局を名誉毀損で訴えた

「俺は死のうと思って飛び込んだんじゃない! ただ帽子を拾おうとしただけだ!」



続く。






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