第35回 第3逸話『プロテウス』 その5
”風が彼の周りを飛び跳ねた。光る風の手編みに操られ、マナナーン(伝説上の海の妖精)の駿馬どもが”
頭がクラクラするスティーブンの独白文章が続き、筆者は「俺はこのまま死ぬのか」と思った次の瞬間、突然文体が三人称になる。
海岸を歩くスティーブンの周りを、風が飛び跳ねたんだって。マナナーンなる比喩表現とか出てきて、普通の小説っぽくなり、ホッとする。
”あの新聞投稿(ディージーに託された手紙)を忘れちゃいけない、その後はシップに12時だ”
さらに小説内の情報も出てきて、「俺はまだ大丈夫だ」と安心する。
”セアラ(サリー)叔母さんの家でも行く?”
スティーブンはこの時、「そういえばサリーおばさん家がこの近くだったよなあ。寄ってくか?」と思う。
サリーおばさんとは、スティーブンの亡くなった母メアリーの実兄リチャード(リチー)・グールディングの妻。
要するに、海岸をぶらぶら歩くうち、親戚ん家の近くにきたから寄って行こうか、とスティーブンは考えたらしい。
そして、クソ文体は(失礼)またややこしくなる。
まず最初に言っておきたいのは、下の太文字は、スティーブンの意識の流れです。彼が頭の中に浮かんだ、物や風景を、そのまま文字(本来なら文字にすらなっていないもの)にした物です。
そもそも我々読者に伝えようと言う気は全く無い、スティーブンの独り言文体です。
”僕と同一実体の親父の声が聞こえる”
「僕と同一実体の親父」とは、スティーブンの父サイモン・ディダラスのことだと思われる。
なんでここで実父サイモン?
これは、サリーおばさんのことを思い出したらついでに実家のことを思い出したから、だと思います。
”この頃、芸術家のスティーブン兄さんの影形でも見かけるかい?”
(スティーブン兄さん? …じゃあサリーおばさんの旦那リチー・グールディングが、(スティーブンはその場にいないとき)昔スティーブンの弟か妹に尋ねた時のことを、不意に思い出した?)
”サリーおばさんの家じゃあるまいね? あれも、もう少し高いところを飛べないものかねえ
(ここ、説明が非常に難しいのだが、
実家にいると思われる父サイモンが、「息子は今どこで何してるか」、父が考えているだろうことをスティーブンが予想している(スティーブンは昨夜までマーテロ塔に滞在、1ヶ月ぐらいは実家に帰っていない)。
つまり、サイモンがうちで今上の太字みたいなことを言ってるんじゃないか?
スティーブンがぼんやり予測している(わかりました?)。
父サイモンは、妻メアリーの家、つまりグールディングの家を快く思ってない。ついでにスティーブンの友人たちについても)”
”そんでそんでそんで、どうだいスティーブン、サイおじさんは元気かい(サイモンのこと)?”
(リチー・グールディングの口癖をサイモンが真似した時のことを思い出しているリチーの真似じゃなく、リチーを真似てるサイモンを想像して)
”結婚したおかげで飛んだ連中と親戚になっちまった!”
”ウォルターは(リチー&サリー夫妻の息子)自分の親父を、デスマス口調で話すんだよ。そうです父さん、〜です〜です、ってな”
(ここは、スティーブンがもし今夜にでも実家に帰った時、父サイモンに「昼前にサリーおばさん家によってきたよ」って報告したら、多分こんなことを言われるだろうなあ、と言うスティーブンの予測。
言うまでもなく、サイモンはジェイムズ・ジョイスの父ジョン・ジョイスがモデル。ジョンは妻のメアリー(スティーブンの母と同名)家柄をいつも侮蔑していたそう。
何度もお伝えしているように「意識の流れ文体」というのは、文の流れがバラバラ。時間も場所も変幻自在。まさにタイトルになっている変身翁プロテウスの所以。
”僕はドアの前に立った”
しばらくするとまた現在の説明独白になる。スティーブンは、サリーおばさん家のドアの前に着いたらしい。
ドアをコンコン。
「スティーブンですよ、お父さん」「そうか入れてやれ」
玄関で、ウォルターがスティーブを迎える。中へ入るスティーブン。
「おはよう甥ごさん。腰を下ろして散歩でもしろや」
人を招き入れといて、いきなり散歩しろってなにいっとんねん。
酒を振る舞おうとするリチー(まだ昼前ですけど)。
”俺とスティーブンに酒を出させろ。母さんは?”
”今娘をお風呂に入れています、お父さん”
”おじさん、本当にお構いなく…”
”まあ座れやスティーブン。てめ、座らなきゃぶっ飛ばすぞ!”
リチーは持病によりちょっとイライラしているらしい。
スティーブンは、実際にはサリーおばさんの家に入っていません。…これ全てスティーブンの妄想です。
”没落の家さ、僕んちも、ここも。お前はクロンゴーズ(スティーブン及び作者ジョイスの母校)の坊ちゃん連中に言ったっけ、
僕には判事と将軍の祖父がいるって。
…そんな家から抜け出せよ”
この独白はスティーブンが、スティーブン自身に言ってるんじゃないか?
『ユリシーズ』の前作『若い芸術家の肖像』で、まだ幼少のスティーブンはクロンゴーズ・カレッジの裕福な家柄の学友に、「君のお父さんは何をしているの?」と問われて、モジモジしながら「父はジェントルマン(紋章保有者)さ」と曖昧に答える。
今、22歳の彼は、見栄を張り嘘(判事と軍人の親戚)をついた幼少期の思い出に後ろめたさを感じ…。
…続く。
スティーブン及びジョイスの父親の仕事は徴税士。あまり優秀ではなかったようで、スティーブン在学時に解雇される。以降家庭は苦しく借金のせいで資産を奪われ、、スティーブン(及びジョイス)も9歳で中途退学を余儀なくされた。
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