憧れの物語は、いつだって省略されている
小学生の頃、偉人の伝記を読むのが好きだった。
エジソン、ナイチンゲール、ベートーベン。図書館にある伝記を片っ端から読んだ。
地元の町名の由来にもなった江戸時代の偉人や、地元の名士の逸話を聞くのも好きだった。
昔から『すごいひとのはなし』を聞くのが好きで、その興味は今も変わらない。すごいひとたちの考え方や哲学を理解したい、という欲求は私の大きなモチベーションだ。
ただ、すごいひとの話を知り過ぎることは弊害もある。
彼らの話はあまりに美しすぎて、目標として高すぎて、ふと自分の足元を見つめると自分の人生は何も進んでいないんじゃないかと必要以上に焦燥感にかられてしまうのだ。
大学を卒業してはじめて社会人としての一歩を踏み出したとき、私は自分のできることの少なさに衝撃を受け、焦り、絶望した。
学生アルバイトとしては『そこそこ使えるやつ』だったとしても、いざ社会人として働いてみると想像以上に自分にできることは少ない。その現実に気づくことは、『すごいひとのはなし』の蓄積によって理想が上がっている私にとって酷なことだった。
そこからの職業人生はずっと、理想に現実が追いつかない苦しみとの戦いだった。
なんで私はここで足踏みしてるんだっけ。
この道の先に本当に理想の私はいるのかな。
今振り返ってみれば微笑ましいような気もするけれど、常に何かに焦って迷っては、自信を失ったりうまくいかなくて困ったりしていた。
そんな私の若手時代の話をしたら、『最所さんってはじめからスムーズにいって今があるんだと思っていました』と意外な顔をされて、はたと気づいた。
どんな人の物語も、本人以外から見れば悩んだり焦ったり不安になったり、格好悪いところはすべて『省略』されているのだと。
これまで私が憧れてきた偉人たちにも日常はあって、いい歳してお母さんに怒られて凹んだ日もあるだろうし、酔っ払って後悔した日だってあろうだろう。
でもその物語が私たちに届く時には、そういう格好悪い部分はバッサリとカットされているのだ。
もちろん偉人だけではなく身近な人への憧れも同じで、他人の『いい部分』と自分の『悪い部分』を比べてその落差に勝手に絶望したりする。
でも実は長い目で見れば自分の物語はちゃんと少しずつ前に進んでいる。自分の物語は、他人の物語よりも少しばかり長編で、描写が細かいだけなのだ。
努力するために健全な危機感をもつことも必要だけど、気持ちばかり焦ってあれこれ手は出すものの続かない、というのが一番もったいない。
私の人生は私が死ぬ日まで未完成で、生きているかぎりは永遠に夢の途中なのだから。
今なら心からそう思える。
子供の頃からずっと『すごいひとのはなし』を知るのが好きだった私は、30を目前にしてやっと『すごい人にもすごくない瞬間がある』と気づくことができた。
そしてそのすごくない瞬間こそが人生の深みであり、人間としての魅力にもつながるのだと。
結局人は自分の人生を歩むしかないのだ、なんて当たり前の結論にたどり着くまでに何年もかかったし、何度も泣いては眠れない夜も過ごした。
とはいえ人間はすぐに変われるものでもないので、結局この先もジタバタしたりすごいひとたちと比べて落ち込んだりするのだろうけど、私は省略されていない自分自身の物語に興味がある。
とはいえ、もしタイムスリップできたとしても『そのうちその焦りも解消されるよ』なんて種明かしもしないだろうし、『焦らずがんばれ』なんて励ましもしないだろうなとも思う。
『憧れの物語は、いつだって省略されている』という学びは、自分の頭で考えて苦しんだからこそ得られたものだから。
この物語は、短いようで長い。
だからこそ苦しみすらも省略せず、ひとつひとつ味わうことが人生の醍醐味なのではないか、と思うのだ。
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