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忘れる幸福と記憶の権利
昔の思い出話をしていて、「えっそんなことあったかなあ」と自分の記憶と人の記憶にすれ違いを感じることが増えた。少し前は「そんなこともあったねえ」と言い合っていたはずだが、学生時代の話ともなるともう20年近くも前(!)の遠い記憶であり、言われても思い出せないことの方が多くなってきた。思い出話に花を咲かせるというのは同じ記憶を共有して語り合うことだと思っていたけれど、自分の記憶にない、つまり「自分の知らない自分」に出会い直すことなのかもしれない。
忘却は脳に備わった幸福な機能のひとつである、といったような言い回しをどこかで読んだ覚えがあるのだけど、その記憶すらももはや曖昧である。覚えておきたいことも忘れたいことも、自分の意思に関わらずすべて等しく脳は手放していく。時間という大きな波がすべてを洗い流していく。
記憶はそれ自体に価値があるのはもちろんだが、アイデンティティと分かち難く結びついているものでもある。自分が経験したこと、感じた思い、それらの総体が「自分」なのであって、過去をすべて失ってしまったとしたら自分自身が立脚する地点がなくなってしまう。
だから、私たちはそれに抗うように、覚えておきたいものは書き記し、語り継ぎ、たとえ個人がその記憶を失ったとしても集団として記憶を保持しておけるようにと工夫をこらす。そして本人にとって重要な体験や感情であればあるほど、記憶は個人の中だけで収まらず、後世へと残すべきものとして扱われる。
特に悲惨な経験や現代とは異なる文化・価値観を遺していくことは、無条件によいこととして扱われる。しかし、集団の記憶は個人の脳の仕組みと異なり、自然と風化し忘れ去られていくことがない。ずっと風化することのない記憶を持ち続けることは、果たして集団にとってもそこに属する個人にとっても幸福なことなのか──。
カズオ・イシグロの「忘れられた巨人」はまさに、この問題を正面から描いた作品だった。
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