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「たそがれ」を書けるようになる日まで
読み終わった瞬間、「ああ、これは私には書けない」と思った。
若松英輔の『悲しみの秘儀』を読了したあと、一番はじめに持った感想だ。
「書けない」とは、技量の問題ではない。
自分の中に存在するものは、訓練さえすればいつか書ける。
逆に言えば、自分の中にない感情は書けない。絶対に。
***
「人生には悲しみを通じてしか開かない扉がある。」
第1章に書かれたこの言葉を皮ぎりに、私たちは彼の悲しみの扉を開く。
このエッセイ集は、若松英輔が妻を亡くした悲しみとの伴走の軌跡である。
彼は無理に立ち直ろうとしたり、思い出に消化して悲しみを打ち消そうとしたりしない。
悲しむということはそこに確かに愛があった証拠であり、また悲しみの中にこそ潜む美しさがある、というのがこのエッセイ集の一貫した主張である。
歌人・永田和宏は、妻を喪ったあとにこんな歌を詠んだ。
わたくしは 死んではいけない わたくしが
死ぬときあなたが ほんたうに死ぬ(永田和宏)
自分という個体が消えてしまえば語り継ぐ人がいなくなってしまうように、悲しみが完全に昇華されてしまったら、そこに付随していた愛や想いも一緒に霧消してしまう。
悲しみ続けるとは、ある種の甘美な感情なのかもしれない。
それだけの悲しみを背負い、自らの感情に向き合い続けてきた人の紡ぐ文章は、強く優しく、私たちに新しい感情の襞を与える。
まるでそこは、深い静寂が空間を覆い尽くす鍾乳洞のような世界。
しんとした静謐な空気の中で、時折ぽつりぽつりと涙が落ちる。
ああ、これはまだ私には書けない、と思う。
でも、きっといつか私も書くのだ、と思う。
この作品は、時の流れで言えば「たそがれ時」の文章だ。
朝日が昇ってあらゆるものを照らし、育てた時間があればこそ、暮れてゆく時間の儚い美しさが光る。
朝焼けもカンカン照りも経験することなく夕暮れの切なさに気づくことはできないように、その時々で必要な経験を土台にしなければ、悲しみの奥にある美しさや愛の奥深さに気づくことはできないのだろう。
悲しみの中にそのパンを食したることなき人は、
真夜中を泣きつつ過ごし、早く朝になれと待ちわびたることなき人は、
ああ汝天界の神々よ、この人はいまだ汝を知らざるなり。
『禅の第一義』(鈴木大拙)
悲しみのパンを食べることは、人生の真実を知る扉の前に立つということである。
世間はいつも前を向け、ポジティブに生きろとばかり言うけれど、悲しみに真摯に向き合わずして「たそがれ」を書くことはできない。
私たちに必要なのは、悲しみや辛いことから目を背けることではなく、悲しみの中に愛や光を見つけ出す力である。
若松英輔は、エッセイの最後を夏目漱石の『こころ』に出てくる先生の遺書の一節で締めくくった。
私は暗い人生の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上ます。然し恐れては不可せん。暗いものを凝っと見詰めて、その中から貴方の参考になるものを御攫みなさい。
自分の人生がたそがれにさしかかるころには、どれだけの数の悲しみのパンを食べ尽くしていることだろう。
そしてその頃には私も彼と同じく、声にならない呻きを言葉に変えて、悲しみと伴走する方法を模索するのだろう。
***
P.S.この素敵な作品に出会わせてくれた俵万智さんの書評に、敬意と感謝を込めて。ぜひ本を手に取る前に、彼女の書評もあわせて読んでみてください。
(Photo by tomoko morishige)
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