複雑なことを、複雑なまま捉え続ける #unleash_event
いつの頃からだろう、『難しいよね』で話を終わらせてはいけないという強迫観念が思考を支配するようになったのは。
何か自分なりの解を出さなければならない、せめてシンプルに整理して語り、問題点を明確にしなければならない。
それこそが知性であり、『難しいよね』で終わらせるのは考えきれていない証拠だ。そう思ってきた、のだけれど。
先週登壇したUNLEASHイベントがはじまる前、モデレーターのジュンヤさんは『今日は難しいことを、難しいよねと言い合う会にしましょう』と提案してくれた。
そうか、無理やり問題をシンプルにして解説したり、『こうすれば解決する』という提案をしなくてもいいのだ。そう思った瞬間肩の荷がおりて、問いを提示することに集中できた。
イベントのテーマは『ビジネス、メディア、人文知の交差点』で、メディアが社会的責任と商業的成功をバランスするには何が必要なのか、受け手のリテラシーは何によって成長するのか、分断はどうすれば解消しうるのか、そんな『解のない問い』をつれづれなるままに語っていった。
普通はそれぞれのテーマに対して、ここをこうすれば解決するはずだと提案するものなのだろうけど、私はできるだけそうしたくはなかった。
複雑なことは複雑なまま、難しいことは難しいまま捉えた方がいい、というのが最近の個人的なテーマでもあるからだ。
個人的な信条として、『ものごとを捉えるときは複雑なまま、行動するときはシンプルに』をモットーにしているのは、ものごとをシンプルに見すぎることの危険を感じることが増えたからだ。
単純化すればするほど、余白や例外がどんどん削ぎ落とされていき、グラデーションを受け入れられなくなっていく。
そしてグラデーションを受け入れられなくなると、AかBか、敵か味方かといった対立を煽る図式に収束していきやすくなる。
私は対立や何かを悪者に仕立て上げて排除する動きにはあまり意味がないと思っているのだけど、それは仕組み自体への疑問をもつ思考を停止させてしまうからだ。
『バタフライエフェクト』や『風が吹けば桶屋が儲かる』という言葉があるように、ものごとは思わぬところと繋がっているし、表出した問題の奥には何重にも折り重なった仕組みがある。
絡まった糸をむやみに引っ張ると取り返しがつかなくなってしまうように、糸がどこにつながって何によって絡まっているかを把握して、根気よくひとつひとつを解きほぐしていくほかない。
一方で、社会問題が絡まった糸をほぐすのと異なるのは、ゴールのある問題ではなくいいバランスを『とり続ける』ことが必要とされる場面が多い点だろう。
例えば新しい技術を取り入れた方がいい!という意見があるとして、彼からすれば過去のやり方にしがみつく人たちは滑稽に見えたり、腹が立つこともあるだろう。
しかし、現在の姿もまた過去に誰かが『こうあるべき』と考えて、その意見が収束していった結果でもある。
つまり過去を否定するだけでは問題の本質は見えてこないし、新しさにも必ずデメリットがあるからこそストッパーになる勢力が必要で、それらのバランスによってものごとは中庸に収束していく。
だからこそ、自分の意見は自分の意見として持ちつつも、相手を自分の意見の側に引き入れようと躍起になるのではなく、バランスをとるための妥協点を見つける努力をしなければならないのだと思う。
そしてそれは往々にして複雑で、難しいことだ。
人は『わかる』ことに快感を覚える生き物だから、仮想敵を作って善悪の二項対立を作った方が安定しやすいし、考え続ける苦行から逃れようとしてしまう。
しかし、そもそも複雑な世の中の動きを単純化できると思う方が傲慢なのではないか、とも思うのだ。
唐木さんのこのツイートに触れて改めて、難しいことを難しいままに受け止めることは知性と胆力が必要なのかもしれない、と思った。
ただ、それは複雑だからと放棄したり諦めたりすることではなくて、むしろ複雑なまま受け止めることこそが『考え続ける』ことなのだろうと思う。
『難しいよね』で終わらせることは、決して思考停止ではない。
難しいことは難しい、複雑なことは複雑だと素直に受け止めながら、それでいて考えることを諦めずにいたいと改めて思ったイベントだった。
当日のイベントの様子は早々に感想noteをあげてくださった方々がいらっしゃるのであわせてどうぞ!
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