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キミは何故会社を辞めたのか?#6「総合商社C社編」

これは大企業適性のなかったある男の話です。就活生とも最近の仕事柄話をすることは多いのですが、ほとんどの学生が大企業志向です。大学生ではなにがしたいかも世の中にどんな仕事があるかもわからず、CMでの露出の多い企業が良い会社だと思ってしまう気持ちもよくわかります。そして実際に入れるものならば大企業に新卒入社した方が間違いない、つぶしがきくということはそうなんでしょう。しかしながら大企業に向いていない人も存在しますので、これはそういう人が大企業に入ってどういう目にあってしまうかという稀なユースケースとしてとらえてもらえれば幸いです。


モグリで入社面接へ

大学を留年し2年目の就職活動時期を迎えた私は、OB訪問しても逆に嫌われて「この学生はNG」というフィードバックを人事部にされてしまうという自分の特性に気づいておりました。生意気な態度をあらためればよかっただけだったかもしれませんが、そこは1mmも態度を改めず、OB訪問しない作戦をとります。
同じ会社を受ける友人に一次面接の前日に電話で教えてもらい、当日同じ時間に行くという作戦です。
C社も前日に「14時、ポロシャツで本社通用口」という情報をゲットして、当日しっかりポロシャツで訪問します。

もちろん受付の女性は、
「あれ、名前がリストにないですが、本当に今日ですか?」
と簡単には通してくれません。
それはそうです、アポはありませんから。
ここからが勝負です。
「今日で間違いありません。しかし、人を呼んどいてそちらこそ失礼ではないですか?」
と全く動じず、すこし逆ギレ気味に返します。すると
「あ、すいません。」
と先方は条件反射で謝ってくれるので、そこは
「いえ、間違いは誰にでもあることなんで、大丈夫ですよ。」
と間違っているのはこちら側なんだけどニコヤカに余裕をみせると、その女性は控室にいる人事部の係長あたりの人に「こんなリストにない学生きたけどどうしますか?」と聞きにいってくれます。

当時大ヒットしていたビバリーヒルズコップのエディー・マーフィー風のアドリブで、まんまと入社試験を受けることができました。
モグリでも入社させてくれるなんて、C社はなんておおらかで素敵な会社だったんでしょうか。。。

いきなり500万円!

新卒であろうともC社の社員になった瞬間から社会的信用が得られます。当時本社ビルの中に系列銀行の支店があり新入社員は全員そこで口座を開設させられます。その銀行キャッシュカードはなんと200万円の与信枠が設定されていて、いきなり200万円ATMから引き出すことができたのです。その系列銀行で貸してもらえなくなっても、消費者金融(C社子会社)のATMがビル内に設置されていて、そこに社員証を突っ込むだけでさらに300万円ほどお金が出てきます。金融機関からすると最も取りっぱぐれのない人種なんでしょう。

教育制度もバッチリです。新入社員は仕事に関するあらゆる事を教育してもらえます。与信管理、外国為替、運輸、経理、貿易、英語等の十数科目の社内試験がありそれをクリアしないと海外出張にはいかせてもらえません。ここで広範囲な業務知識を教育してもらい、また担当者として比較的小さなビジネスをまかせてもらったことで、なんとか一人でも仕事ができる能力を身に付けることができました。感謝です。

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どこかにアプローチするのにC社の名前を出せば無碍に断られるということはほとんどなく、看板で商売ができるとは本当にこのことです。当時、自分の実力と会社の看板をよく混同しておりました。過去から積み上げられたC社の絶大な信用で仕事をさせてもらっていたのに、時に勘違いして傲慢になっていた気がします。あ、元々そういうタチでもありました。すいません、本当に。

今でも、C社は理想の会社トップ5に入ると思っています。「なんであんな素晴らしい会社を辞めるんだ。もったいない。」と田舎の母親は亡くなる前までずっとそんなことを言い続けておりました。
今では入るのも難しいし、C社の生涯メリット期待値はとても高いので、辞めるなんて、本当に馬鹿げているのかもしれません。

確かにメリット満載ですが、デメリットもあります。
例えば、あまりにもリソース満載、高待遇、高コスト体質な為、営業1人あたり年間なんと60百万円の粗利を出さないと当時赤字になっていました(現在は更にコストは上がっているので、おそらく1億円近くになっていると想像されます)。
今時よくあるリーンスタートアップとかいう概念は存在しませんでした。何もできない新米営業マンでもそのコストを負担することになります。新規事業をやろうとしてもどうしても巨額な赤字を覚悟しなければなりません。もちろん最初は赤字でもいいので3年以内に黒字化するというガイドライン等が用意されておりますが、こういう構造から自分で事業をゼロから作り、大きく成長させるのはとても困難です。それでもできる凄い人もいますが、凡人の私には無理でした。いくつか新しいビジネスに挑戦した中で、比較的まともだったのが、フランスのサーフブランドの日本展開でした。青山にある有名スキーショップと競合しながらも、日本での独占販売権を獲得し、最初のコレクションの滑り出しは順調でした。しかし、その後数年ヒットせず、在庫の山に苦しむことになり、最終的に撤退してしまいました。

部門解体、救済合併からの脱出

下々の者にはわからない上層部の暗闘があったかどうかは分かりませんが、所属部門が解体されることになってしまいます。他の部門に吸収された際に、救済合併みたいな事が社内なのに起こっていました。

暫くして、その部門の部長としてコロンビアの麻薬カルテルのドンみたいな人が着任します。彼は純白のスーツに金のごつい指輪をじゃらじゃらつけていて、金フレームの色付きメガネという出立で登場するのです。
「南米でスナイパーを雇ってライバル業者を〇〇してた」といった嘘みたいな冗談を言うのですが、カッコからして洒落になってない状態でした。
流石に自分も敬遠していたのですが、後々話をしてみると意外に虫も殺さぬいいおじさんだったりしたので、食わず嫌いはいけないとまた反省しております。

いろいろな事件が発生するなか、親分を失った少数民族として肩身の狭い部門にいても面白くないので、隣の事業部の仲のいい先輩に「そっちに混ぜてくれないか?」と相談をします。
1年間コワモテ部長の下でのらりくらり過ごしていたら、とうとうその先輩が隣の事業部の子会社にポジションを作ってくれたのです。他部門が「こいつをくれないか?」と言ってきた時に、「まぁ役に立たないからあげてもいいか」とコロンビアのドンは放出してくれたようです。

普通は大企業の人事は上から落ちてくる指示で決まるのですが、非常にレアケースで自分で異動していくという荒技でした。その時点で、人事部の履歴上要注意社員となっていたと思われます。

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物真似で放出?

年末、異動した部門の忘年会において急遽芸を披露することになり、何も思い付かず、仕方なくモネマネをすることになりました。
当時の部長はミラノ帰りで、当時のイタリアンファッションに身を包んでおり、スキンヘッドでまさにイタリアンマフィアの出立ちでした。スリムなズボン、胸にハンカチーフ、ネクタイは玉が大きく、前の剣を短く結ぶのが流行っていたのですが、そのお方のマネをする為、
ズボンの裾を靴下に入れ、ガニ股で歩き、ハンカチーフの代わりにトイレットペーパーを胸から長々と垂らし、ネクタイは前の剣が3cmしかない、へんちくりんな格好で、練り歩きました。
会場は大爆笑ではあったのですが、一人笑っていない人が後ろにおりました。それがミラノ帰りの部長だったのです。
上司を小馬鹿にしたからなのかどうかは不明ですが、その後その本部全体のリストラがあった際に、かなりの数の人間が他部門に放出されましたが、私もその一人でした。

嫌われない能力

思い返せば何人もいた上司で良い関係を構築できたのは半分ほどで、半分の上司とはうまくいきませんでした。当時は、その上司を非難しておりましたが、自分に非がないわけがありません。なぜならばその自分に合わない上司とうまく付き合っている人も少なからずいたりするからです。要するに自分に合わせる能力がなかったのです。

大企業では嫌われない能力というのが大事で、9割9分の人に嫌われない(1%の人には流石に嫌われる)人はそれを10年(10回)繰り返すと、90%の確率で誰にも嫌われずに生き残ることができます。一方私みたいなファームと1軍を行ったり来たりするような打率2割5分くらいの人(3/4の人にあまりよく思われない)の場合は、それを10年繰り返すと、生存確率は限りなくゼロに近づいてしまいます。
変に尖らず、謙虚に、大口も叩かず、どんな上司もささえてあげようという大きな気持ちを持てていれば、結果は変わったかもしれません。

パワハラの連鎖

昭和世代にはパワハラという概念がそもそも存在しませんでした。
どんな会社も多かれ少なかれそういう事は存在していたんではないかと思います。
思うに何故パワハラのような事態が発生するのか?
組織の上下関係によってパワハラが起こるいうのも一理ありますが、そもそも終身雇用とか年功序列とかの日本固有の労働環境が一因ではないかと思っています。
一生そこで働くのですから「なにがあっても我慢しないといけない」と部下は思いこみ、上司も「どうせ縁が切れることはない」とたかを括ってそういう無茶な要求や暴言をはいてしまうのではないでしょうか?
そしてその会社が世に言う一流企業であればあるほど、「そこまで気をつけなくてもいい」という慢心、「どうせやめてもここよりいいところはない」という思い込みがパワハラを加速させていたのではないかと思います。
今思い返してみると、大した事ではなかったのかもしれません。どんなに厳しい叱責や、長時間労働を課されたとしても、もし未来への希望があれば我慢できたと思います。
当時の自分は、畑違いの部門に飛ばされて、それまで中腹まで登っていた山からある日全然違う山に連れてこられたのです。そしてその山の中腹で同年代の同僚達がいいペースで頂上を目指していました。自分も中腹におろされるかと思いきや、ほぼ麓に降り立つことになり、かつ同僚達のペースよりもかなりのろのろした登山初心者のようなペースでしか登れません。あきらかに頂上には到達できず、中腹位で社会人人生を終えそうでした。そしてその山そのものにも自分として価値を見出すことができなかったのです。

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山の麓でもう未来がないと絶望してしまったのが、もっともきつい状況だったのかもしれません。死んだ魚のような目をして半年程なんとか頑張ってみたのですが、廃人に近い状況でした。そして辞めることにしたのです。

幼児虐待を受けた人が自分の子供を虐待してしまうように、パワハラを受けた人は自分の部下にもパワハラをしてしまう傾向があるように思えます。パワハラの連鎖は、これぐらいは自分がされた事と比べて大したことがないと思ってしまい、それが教育、指導と勘違いしてしまうのかもしれません。自分もそうした連鎖を犯してしまっていたような気がします。なのでだれかを非難できる立場ではありません。

パワハラはよくありませんが、私はその方を恨んではいません。逆に今では感謝しておりますし、偶に食事をご一緒させてもらったりする仲です。彼がいなければ、その後の面白い人生を歩むことができなかったからです。変に優しい人が出てきたら、今でも向いてない仕事を中途半端にしていたかもしれません。

最後に

優秀で心の広い上司や変わった人達に沢山出会いこうしてC社を退職しましたが、苦い思い出も含めて全てがいい経験だったかと思っています。また育ててもらったことに感謝もしております。
一度絶望の淵を垣間みることで、その後様々な困難にあいましたが、あの時のに比べればなんでもないことと切り抜けられる強靭な気持ちが培えたのではないかと思います。
大企業のサラリーマンとして避けることができない人事異動ですが、結局人に指図された不本意な仕事は、難局に対峙した際に、自分の芯の深いところで本気でやれず、いい仕事にならないことがよく分かりました。C社を辞めてからは自分の意思で仕事を選んできましたので、どんな時も自分の選択として真剣に仕事ができたのではないかと思います。
自分の人生は自分で決めるという生き方もあることを若い人にも認識してもらえたなら、この「キミは何故会社を辞めたのか?」シリーズも意味があったかと思います。


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