見出し画像

伝統的な方法で大問題に挑むことについて

 これまでたくさんの内容を紹介してきた。しかしそれが100年ほどの寿命に沿うものであるかどうかはわかりかねる。というのも、どのようなコンセプトにせよ、それがすべてを内包する理念的な意味合いを普通もつからである。それゆえ、その理念的なものがそのすべてを内包していればそれが存続するだけの価値と意義を持つということでもあるといえる。

私からすれば、その理念的なものが内包する割合は、数を重ね、年を重ねるたびにだんだんと内包する割合は高くなり、その理念はおおよそ50年は継続可能なものとなり得たといえるほどである。私の場合の本当の目的は以下の通りである。

①物理学を紙と鉛筆という伝統ある方法で大問題となる物理学または,数学の問題を解決する

②弁理士になっておおよそ死ぬまで仕事をし続ける

もっとも、この2択であるにせよ、論文を読まなければすでに解決された問題だったかもしれないし、そうした他を知らねばおおよそ勘違いである可能性もある。また、その独学でしてきた内容が全くそのような問題のレベルに到達していないとか、または、見当違いのことを探し回っていたというリスクを回避するためにも、権利としての論文を読むことをせねばなるまい。

それはおおよそ、名の知れた大学教授がするように毎週ジャンプを読むように論文を読むということ、それと同じであろう。ただ、目的となるのは、この2つだけであり、他は付属品に過ぎない。そのためにプログラミングを学んだり、そのためにCADで立体的な何かを図で示したりすることもまた、付属品に過ぎない。この2択は、おおよそ誰もがそれに精通し、なおかつ、選び抜き、考え抜いたすえの究極の目的でもあるから、伝統的に紙と鉛筆というアナログな内容であり、いつ、どこでもこの道具さえあれば、ほとんど可能であるから,その意味で深淵に向かうための知識や知恵、知っていなければならない情報、覚えておかねばならないことはたくさんあれど、そうしたものさえ道具であるということもいえる。

どこでも誰でもほとんど可能なこの1択はほとんど目的でありながら、すぐさま今日にもでできる内容であり、ごく身近に存在するものであるといえる。それゆえに究極的にシンプルであるのに、究極に複雑で難しいことなのだという究極にも至るところががある。このためにこそ理念やそうした目標を立てることは、いわば、長距離走で42.195kmを3時間で走るために、今日、10km走りにゆくのと同様に、シンプルでありながら、複雑で難しい課題なのであるといえる。このことは、物理学の難問を紙と鉛筆で解くために、今日、紙と鉛筆で小問に挑むということと、同じ意味になるだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?