対称性と騙されない条件
今回はプロセスを重視した場合の結論、あるいは結果のあり方について考察したいと思います。 一般的に普通、騙されている条件とかいうものが提示されていない以上、常に騙される状態にある。 そういう状態、疑わしい状態にあるということをまず示しておきましょう。 例えば、二言論的な量と質について言った場合、 例えば、量が大事だとか、質が大事だ、質が大事だったら量が大事だ、みたいな、 こういうふうに常に二言論的なものには、騙される関係が常に存在するということです。 このほか、単純な例で先ほど見ましたが、実際にはもっと複雑な騙し合い、あるいは騙す、あるいはそうしたトレードオフ、そういったことが起こるわけですね。
プロセス重視の結論や結果のあり方を考える際、まず「騙されている可能性がある」という前提を意識することが重要です。これは、多くの状況において真実を単純に見極めることが困難であることを示唆しており、特に二言論的な考え方に注意が必要です。
たとえば、量と質について、「量が大事」と言えば「質が軽視されている」と解釈されることがあり、「質が大事」と言えば「量が犠牲にされている」と考えられることがあります。つまり、量と質のどちらか一方を強調することで、もう一方が自動的に軽視されていると見なされることが多く、これがある種の「騙される関係」を生んでいるわけです。
このような二言論的な考え方が、私たちを「騙す構造」を持つことは、他の状況にも当てはまります。二者択一を提示することで、実際には存在する多様な可能性や、プロセス全体の複雑な相互作用が無視されることがあるのです。たとえば、量と質の関係は単純なトレードオフには限らず、ある特定のプロセスにおいて量が質を高め、質が量に作用するような複雑な相互作用もあり得ます。このような「見かけの二者択一」に囚われることなく、物事の複雑な相関関係を捉える視点が、プロセスを重視する際には不可欠です。
結局のところ、プロセスを重視する際には、単純なトレードオフに騙されず、複雑な関係性や視点を常に検証し続ける姿勢が求められると言えます。この姿勢が結果の理解を深め、真の価値を見極めるための鍵となるでしょう。
例えば面白い実験、というか比喩を考えてみましょう。 あるラクダに乗った人、砂漠のそういう人物がですね、 あなたはラクダに乗っているから行けない、ってこう言われたりするわけですね。 で、降りてですね、ラクダを引いていたら、ラクダが可哀想だ、引くな、みたいになって。 要するにですね、ラクダに乗ろうとも、引こうとも、何でもかんでも人は避難する、ということになりますね。 これに便乗する、あるいは反応するのは、あまり良くないわけですし、 そもそも本質的に目的を持たない、もしくは何か目標を持たない人間、あるいは確固とした自己を持たない人間というのはですね、 基本的には騙されている状態に常にあることになってしまう。 なぜならですね、ラクダに乗ろうとも、ラクダを引こうとも、何でもかんでも人は言われるわけですよ。 先ほどの例の量と質、質と量にしてもそうですね、このようにですね、二元論にせよ、先ほどのラクダの話にしてもですね、 常に騙されている状況にある中ですね、騙されない条件を定義しないことには常に騙されることになってしまう。 ではどうすれば騙されないのかと言いますと、プロセスに着目するんですね。 常に我々は何かを目指し、何かを成長し、そのプロセスを経て結果、あるいはそういう成果が出る。
例えば面白い実験、というか比喩を考えてみましょう。 あるラクダに乗った人、砂漠のそういう人物がですね、 あなたはラクダに乗っているから行けない、ってこう言われたりするわけですね。 で、降りてですね、ラクダを引いていたら、ラクダが可哀想だ、引くな、みたいになって。 要するにですね、ラクダに乗ろうとも、引こうとも、何でもかんでも人は避難する、ということになりますね。 これに便乗する、あるいは反応するのは、あまり良くないわけですし、 そもそも本質的に目的を持たない、もしくは何か目標を持たない人間、あるいは確固とした自己を持たない人間というのはですね、 基本的には騙されている状態に常にあることになってしまう。 なぜならですね、ラクダに乗ろうとも、ラクダを引こうとも、何でもかんでも人は言われるわけですよ。 先ほどの例の量と質、質と量にしてもそうですね、このようにですね、二元論にせよ、先ほどのラクダの話にしてもですね、 常に騙されている状況にある中ですね、騙されない条件を定義しないことには常に騙されることになってしまう。 ではどうすれば騙されないのかと言いますと、プロセスに着目するんですね。 常に我々は何かを目指し、何かを成長し、そのプロセスを経て結果、あるいはそういう成果が出る。
このラクダの比喩は、「何をしても非難される」という状況にある人間のジレンマを示しています。ラクダに乗れば「ラクダが可哀想」と言われ、引けば「ラクダを歩かせるのは不適切」と言われるように、他人の意見に振り回されると、自分自身の軸が失われ、常に「騙されている」状態に陥ってしまいます。つまり、外部の評価や二元論的な判断に依存する限り、自分の行動の真価を見失いがちになるのです。
この状況を回避し、自分の本質を保つためには、他人の意見や外的評価ではなく「プロセス」に着目する姿勢が重要です。プロセスに焦点を当てるというのは、自分が何を目指しているのか、その目標に向かってどのように成長しようとしているのかに意識を向けることです。外部の評価や反応に振り回されず、結果だけにとらわれるのでもなく、成長の過程そのものを尊重する姿勢があれば、「騙されない」状態を保てる可能性が高まります。
プロセスを重視するというのは、自己の信念や目標を軸にして、他者の評価に一喜一憂せず、一貫性を持って行動することを意味します。このようにして、二元論的な視点や外的評価から自由になり、自己の成長と目的に忠実であることが、騙されないための確固とした基盤を築くことに繋がります。
プロセスの在り方にはおおよそ2種類あります。 1つ目は起伏が激しいかどうか。 つまりドーパミンに頼った方法ですね。 ゲームとかね、すぐに達成してすぐ飽きる。 こういう起伏があるもの。 もう1つ2つ目は持続的なものですね。 つまりオキシトシンやセロトニンを用いたものですね。 この2つがあります。 結局これをハイブリッドするわけなんですけども、 ここにはですね、結構複雑なメカニズムが隠れているんですね。 例えば運動と勉強を例えてみましょう。 例えば、みんなで共同で運動をしている、マラソンをしている状況では、 量的で受け身な状態があって、それに時間を削いでいる時間と、 もう1つは質的時間、1人でこだわりを持って短い時間をしている時間、 だけども動的、つまり能動的な時間。 この2つに分かれる。 次に対なるものを用意します。 対照的に勉強なるものを持ち出すと、 量的で能動的に待つということが必要になって、 質的に受動的に行うということが対照的になっているということです。 学校まではこの量と質、受け身と能動、あるいは時間をかけるかどうかというものに依存し、 かつですね、それを学ぶために大学まで存在するといっても過言ではないでしょう。 つまりこの対照性を理解することに時間を割いているということですね。
おっしゃる通り、プロセスの在り方には起伏の激しいもの(ドーパミン主導型)と持続的なもの(オキシトシンやセロトニン主導型)の2種類があります。この2つを組み合わせることで、よりバランスの取れた成長や成果を目指すことができますが、その背後には複雑なメカニズムが働いています。
たとえば運動と勉強を例に考えると、次のような対照性が見えてきます。
• 運動は、みんなで行うマラソンなどの場合、量的で受け身な状態として参加者は一定のリズムに合わせて時間をかけて行います。一方、個人でこだわりを持って取り組む運動では、質を重視しつつも能動的で短時間の集中が求められます。つまり、運動には量的・受動的な側面と質的・能動的な側面が共存し、それぞれが異なる成長や満足感を与えるのです。
• 勉強においては、運動とは対照的な性質が現れます。量的で能動的な学びが必要となる一方、質的には受動的に取り組む場面が重要になります。例えば、知識を深めるために量的に繰り返し学ぶことは能動的であり、反復の中で学びを積み重ねるプロセスです。しかし、理解を深める質的な学びには一度情報を受け止め、内省する受動的な時間が欠かせません。
このような対照的な特性を理解することは、教育プロセスの基盤にもなっています。学校や大学は、この「量と質」「受け身と能動」「時間の使い方」のバランスを学ぶ場であり、それぞれがどのように作用し合うかを実体験することで、複雑なプロセスの理解が深まります。言い換えれば、教育過程全体が、この対照性を学ぶために存在しているとも言えるでしょう。
この2つのプロセスをハイブリッドすることは、単に量や質の配分を調整するだけでなく、個々の活動に適したエネルギーや意識の使い方を習得することであり、結果的に持続可能で満足度の高い成長に繋がります。このように対照性を理解し、それを日常の活動に応用することが、プロセスの本質的な在り方を見つけ出す鍵となるのです。
先ほどの例でいきますと、 運動が量的に時間を削いかけて受け身なものと、 一人で量的に、能動的に少ない時間をするもの、 このものと対照的に勉強が、 量的にマッチ、受け身ですね。 時間が多くする質の方は、 受け身で少ない時間という対照性を保っている。 これをサイン・コサイン・タンジェントに表してみますと、 コサイン軸にプラスが量として、マイナスが質だとしますね。 つまり、コサインだと第一小弦が量、 第二小弦が量、第三小弦が質、第四小弦が質となっていますね。 これがコサイン軸にとられています。 コサインの符号で表されるということです。 これを図にしてみてください。 そしてもう一つ、タンジェントの符号をとる場合、 単純に軸ですね。 これだと勉強が、 まず第一小弦で受け身、 第二小弦が運動で濃度、 第三小弦が運動で受け身、 第四小弦が濃度、勉強というふうになっています。 これを図にしてみてください。 これを掛け合わしたものが先ほどの図になります。 つまり対称性のある勉強と運動になるということです。 つまり、コサイン軸に量と質の軸をとり、 タンジェント軸に濃度と受け身をとって、 勉強と運動を表しているということです。 これを掛け合わしたもの、 つまりコサインシーター×タンジェントシーター つまり、コサインが消えて融合されたものは、 サインシーターの符号になるということです。
こちらに、コサイン、タンジェント、そしてそれらを掛け合わせた結果としてのサイン波の図を示しました。
1. コサインのグラフは、量(正)と質(負)を示し、各象限において量と質の性質が分かれています。
2. タンジェントのグラフは、能動(正)と受け身(負)を表現し、各象限で異なる性質を持つ状態を示しています。
3. サインのグラフは、コサインとタンジェントの組み合わせから生まれる結果として、運動と勉強の対称的な状態を統合した波形です。
このように、各軸に対する概念を掛け合わせることで、全体のプロセスの対称性と融合がサイン波として表現されています。