勘と心
最近思ったのは死んだ情報と生きた情報があるということだ。死んだ情報とはアインシュタインの述べた通りのことであるがこれであろう。
死んだ情報はこの意味で死んでいるものを指す。
この場合、次のようなことが考えられるだろう。
勘を筆頭に直感やセンス、美学というものは答えを問われることがないにもかかわらず、答えることができる。しかし、知識や理性的なこと、理論的なことは問われることがあり、知識や計算によって答えることができるものである。
このとき問題となるのが生きた情報を得た上で、まったく死んだ情報をどれだけ臭くなく、苦もなく、いかに楽しくそれらを融合させられるか?という問いを立てることができるということであろう。
かれこれあらゆることを学んできた中でわかったことは『生きた情報が9割大切なものであり、それを軸に1割の死んだ情報を融合されることが大事だ』ということである。
ではなぜ死んだ情報が悪いのか?
という問いに応えねばならなくなる。死んだ情報は端的に言って、次のようなものが欠けている。
⑴生命力
⑵応用力
⑶鈍い勘
⑷頭でかちである
このようなものである。中でも致命的なのが勘やと直感、生命力である。このことは知能と知性に分解すれば良くわかることになるであろう。
「知能は省略的な定義から次へと推論可能な領域まで拡大できるが知性は心を重心にして相手への理解を重視し、推論を拡大することができる。」
このことの意味を応えてみよう。
この問いに対する答えは、数学の不確実定理にも見てとれるものである。つまり、数学の定義には証明不可能なものが一部含まれているということであり、それが致命的なものであるということだったがこれと知能との関係が大いに関係があるということである。
たとえば1+1=2であるとか、仕事上、せねばならないことが実は不明瞭であり、すべてにおいて指示命令が定義はされておらず、それらが省略されていたとしても法則を辿って答えを出せ、しかもそれで評価される場面がしばしばあるのであるということである。
これは知能の特徴と言えるであろう。
たとえばとしてはある営業ノルマを達成すれば表が評価がBになるという条件付きの下に定義されていることがあったとしても、すべてをそのような目標としてだけで評価されなることができない事例があるということだ。
それはまさにある評価全体をいくら細部に分割して、評価体制をまさにすべて定義し、条件付け、それによって評価しても、必ずや、その部分的な条件を達成したことによる事細かな単一の部分を拡張し、数え挙げ、それらすべてを足し合わせても、全体の評価としては成り立ち得ないことを意味している。
これはかのアリストテレスが述べたようなことと同意義であろう。この場合はそれ以下である。
このように個々の部分的で小さな条件をすべて達成しても、そこにプログラムされていない要素で評価を落とされかねない上に、そのすべての条件付きであるような評価をプログラミングし、その条件をすべて列挙しているとは言い難いものである。ここに客観的な評価と、主観的な評価、すべての評価を明示するわけでもなければ、その条件を満たしたとしても、その通り、評価する義務はない、ということであろう。
この部分と総和が全体のそれと同値ではないことこそがまさに数学で言うとところの定義不明、むしろ省略されている要素といえ、それがまさしく、知能でも言え、知能でもそのようなことが起こり得るということである。
要するにすべてのプログラムされた条件を満たしてもその通り評価されたりしないのが知能や不確実性定理にあるよ、ということであり、それこそが定義されていない一部の省略されたことの本質なのである。この意味で生命的に部分の総和は全体のそれ以下である。
つまり収束する。
これに対して、知性は心を重心にして相手への理解を重視し、推論を拡大することができるのであり、それは相手となるヒトが条件をコロコロのと変えるのであり、云々はこれこれと明示されることがないような条件が入っているということでなのである。このことは部分の総和は全体のそれ以上であり、つまり発散する。
まとめ
⑴知能は普遍性を中心に収束する
⑵知性は心を中心に発散する
⑶知性と知能で振動させる
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?