
偶有性と善や悪の関係
こんにちわ!
また、考えたので記しておきます。
「戦術で善を拡大し、戦略で悪を収束させる」
戦術と善の相性、または、戦略と悪の相性が、非常に良く作用することに気づいた。
また、既知と未知の割合の問題である「偶有性の問題」が非常によく似ていることから、次のような結論が導かれた。
「総合的な戦術による善は、柔軟で未知数」
戦術は、内的なものに結びつきやすく、柔軟性があり、善を広げるのに向いている。
なぜなら、真偽や善悪を判断せしめることが、不可能であるがゆえに、善を推し進めるのに向いているからである。
この場合の善とは、自明の理であることが普通である。
例えば、あるひとに好んだ料理をつくってあげた、という場合、善であることが明らかであることがほとんである。
「分析的な戦略による悪は、厳格で既知」
戦略は、外的なものに結びつく、厳格さがあり、悪を断つのに向いている。
なぜなら、真意や善悪を判断することが、可能であるがゆえに、悪を止めることに向いているからである。
この場合の悪とは、自明の理であることが普通である。
例えば、酒を飲み過ぎることがあったが、少しにした、という場合、悪であることを絶ったということが明らかであることがほとんである。
「偶有性、未知と既知の割合がそのひとキャパシティである」
悪とはいっても、明らかな悪は、容易くみつかる。しかし、それが明らかなものであることは、稀である。
そのため、未知と既知の割合がおもしろさや、楽しさ、幸福に結びつくことと、戦術と戦略の割合がおもしろさ、楽しさ、幸福に結びつくこと、mた、さらに、善と悪を断つことの割合がおもしろさ、楽しさ、幸福に結びつくことが、等しい関係にあると、ここで、仮定すると、みえてくるものがある。
例えば、悪を断つことだけが、すべてであるひとに、善を行うちからがあるか、どうかは、わからない。また、既知のことだけを語ることが、すべてであるひとに、未知を混ぜ合わせるちからがあるかどうかは、わからない。
そして、戦略だけが、すべてであるひとに、戦術の質を問うちからがあるか、どうかは、わからない。この場合、偶有性がそのひとのキャパシティであるとさえ、考えられる。
なぜなら、悪を断つことだけをすべてとするひと、既知のことだけを語るひと、戦略だけをすべてとするひとは、確かに、減点方式で、評価されるものの、否定的にみられることが多く、何より、無味乾燥で、頑なでおもしろみのないひと、として、嫌われることがほとんどであるから、必ず、自身にとっても、他者にとっても、偶有性の問題すなわち、既知に対する未知の割合は、必要なものとなる。
ここで整理してみよう。
「柔軟さとしての未知に該当すること」
⑴善いこと
⑵戦術
⑶総合的
⑷全体
⑸未知の割合
⑹拡大する
⑺art
⑻目的は、直接的なそれ自体
⑼広大で、計り知れず、拡大の一途
「厳格さとしての既知に該当すること」
⑴悪を断つこと
⑵戦略
⑶分析的
⑷部分
⑸既知の割合
⑹収束する
⑺Design
⑻目的は、間接的な目標
⑼狭く、測り得て、収束の一途
ここで、問題となるのが、必ずしも、善であることが、悪を断つことと重ならないことや、未知であることが、既知と重ならないことが起こり得るということである。
確かに、悪を断つことが善であることがあるが、必ずしも、善の総量が、悪を断つことと等しくはならない、ということである。
例えば、すべての悪を絶ったところで、計り知れない善には、及ばないし、仮にいくら、善を行っても、悪を断つことに繋がるとはいえない、ということである。
これは、連続である集合が、微分可能かあるか、という問題に類似する。
a;微分可能であれば、連続である
b;連続であれば、微分可能である、とはいえない
a;悪を断つことができれば、善である
b;善であれば、悪ではない、とはいえない
つまり、測り知れない善の中に、悪を断つことが、含まれているということである。
悪を断つことは、善の部分集合であることがわかる。
“未知数である善を広め、既知である悪を治める”