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近況と雑感

ジェンダーレス・トイレ、というモノが、東京の歌舞伎町に設置されたと聞きました。様々な波紋を呼んでいますが、課題意識が整理されていない中での導入であることがわかります。

トイレが男女別に分かれている、というのが当たり前のように感じている前提でのトピックですが、そもそも小さい飲食店や、住宅などでは男女共用トイレが殆どなわけで、古い便器は男女共用便器なんてのも存在します。段差というか踏み台のある和式便器なんかはそうですね。あと、U字型になった便座も、男女共用が前提だと思います。

1960年代に国立競技場に設置されたアスリート専用の女性用小便器(立ったまま用を足す便器)は、結局普及しませんでした。

トイレは排泄行為をする場所ですから、男女の機能差みたいな部分で、大きく便器の形状が変わってくるのは当然です。用の足し方、も機能差から変わってくるのは当然です。排泄物がはみ出したり、排泄にストレスが掛かったりしないように設計されています。

世の中には、四肢に不自由があったり、人工肛門の人も居るわけで、パブリック・トイレでは男女区別だけではなく、子供用トイレも含め、様々な「区別必要性」に応じた形態が用意されていますが、当事者たちにとっては、不便を強いられていることだと想像できます。

ジェンダーレス・トイレ導入の経緯は複雑です。ヨーロッパなどと比較すると、2023年現在の日本において、性自認における課題意識は一般的に浸透していません。国民性や民族意識、人口ピラミッド構成などが大きく関わっていると思います。まだまだ、現実のものと言うよりは、イメージの世界で片付けられている課題意識だから、差別的蔑視やそれに伴う不毛な論争が起こりやすいんだと思います。

個人的意見ですが、ジェンダーレス・トイレ、というネーミングには疑問符が付きます。

パブリックスペースにある「だれでもトイレ」とは意味合いが少し異なって聞こえます。

つまりそれは、使用者を限定していないようで限定している物言いであり、ネーミング・センスひとつで、トイレの衛生面や安全性など、信頼性が一切失われてしまうのではないか、ということです。

トイレはプライベート空間であるという意識と、それとは真逆の意識、つまりトイレは公共の空間である、という意識は地域によって二分されます。日本においては、それらが混在します。時代を遡って仏教の宗派や、儒教文化、古代ローマ文化など、生活に根付いた宗教的価値観、明治維新以降、あるいは戦後の高度成長期にも大きく変化を遂げたものだろうと思います。

浴室、に置き換えると分かりやすいかも知れません。共同浴場が存在する文化と、そうでない文化は国や地域ごとに違います。

トイレは「はばかり」と呼ばれたり、「雪隠」と呼ばれたり、日本語だけでも沢山の古い言葉が存在しますが、そこには宗教的価値観が根付いています。

偉い先生方の論文を読めば、色んなことが書いてありますが、私はこのように思います。

宗教的価値観、とは元を辿れば、多様な地域における自然環境(気候や地形、ホモ・サピエンスの遺伝的差異、宇宙からの影響など)が及ぼす不安を安寧に変えるための集団心理の形成であり、本来ならスピリチャリズムとも紐づいているものです。

ただ、宗教はときに利権になり、大勢を支配したり洗脳したり、ビジネスとして私欲を肥やすために生理的営みまでもコントロールする文化にもなり得るものなので、「自然な正しさ」や「人間としての必然」みたいな意識にねじれを起こさせるものであることは、この世の中を見ればわかることでしょう。

人体の構造、という「本来このようになっているもの」が、「本来このようにあるべきもの」に言い換えられてしまうと、生物学上区別されているジェンダーに矛盾が生じ、社会問題化していまう様相は、いまの若い世代ならずともわかりやすいことなのかも知れません。

多様性を認めることと、社会的営みのなかで機能を区別することは、対立させたり、決して矛盾させてはいけないことだと思います。

あらゆる差別は、他人には共有できない隠れたコンプレックスが不安として顕在化し、起こりうるものです。根っこの部分から考えないと解決しないように思います。

トイレ、は必需です。どんな誰にとっても使いやすいものである必要性があります。

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