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2022/07/29

遅番だった。午前中、片岡義男『言葉の人生』という本を読み返す。世に日本語を論じた本はゴマンと存在する。もちろんその中のいくつかは傑作である。だが、片岡義男のアプローチは少し違っていると思った。片岡は自分というフィルターを通した日本語について考察を重ねている。ふと出くわした妙な表現、興味深いフレーズについて考察を重ねる。これは自分のセンスを信頼していないとできない作業だ。彼の鋭敏なセンスに唸り、私自身も彼と同じように巷に溢れる日本語と英語について考えられないものかと思ってしまった。

この本の中で「日本語は非論理的な言語か」という問いが語られている。私自身日本語の内側に住む者として思うのは、日本語でも充分論理的な仕事はできると思う(いつも言っていることだけれど)。日本語が曖昧に感じられるとしたら、それは日本語が外国語を無節操と言っていいほどに取り込める、その許容度の高さにあるのではないかと思ったりもした。だがこれに関してももっと考えを発展させることが大事だと思う。一時期話題になった本である水村美苗『日本語が亡びるとき』を読んで、もっと日本語と英語について考えたいと思った。

その後『アキハバラ発』を読む。加藤智大の犯行にまつわる言葉として「誰でもいいから殺したかった」というものがある。この言葉は例えば私も時折目にする「(誰でもいいから)助けて欲しい」「死にたい」という言葉と根底において通じるものがあるのではないかと思った。「誰でもいいから」という言葉から見える、他人/世界というものを極めてフラットに捉えている姿勢が気になったのだ。私自身「死にたい」を何度も目にしてきたし、私自身がそう口にしたこともある。その意味でかつての私は世界をフラットに捉えていたことになる。そうした視点から加藤について考えてみたい。

ああ、私自身がかつて「死にたい」と思っていた頃、そして実際に行動にまで移した頃……自殺未遂をしたこともあった。どうしていいかわからずV・E・フランクル『夜と霧』を読んだり神谷美恵子を読んだりしたこともあった。あの頃、たったひとつ願っていたことといえば何が何でも作家になりたい、そして一発大逆転を果たしたい、ということだった。まああの頃私がバカだった、と言えば言えることではある。あの頃から10年ほど経った。今、再び神谷美恵子を読み返すのもいいかもしれない。いったいどれくらい自分は前に向かって歩いてこれたのか、それを考えるのもいいのかなと。

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