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Praxis 2022/06/22

橋爪大三郎『はじめての言語ゲーム』を読む。実に俗っぽい本だな、と唸らされる。いや、貶したいわけではない。「言語ゲーム」とはウィトゲンシュタインの概念だが、難解なウィトゲンシュタインの哲学をここまで噛み砕き、彼の一生をここまでどこか橋本治チックなホットな文体で(悪く言えば相当に軽薄に)整理した本というのはそうないだろう。この本の成立までに長くかかったことが巻末で明かされているが、それだけの時間を経て著者の理解が深まった状態で提示されたこの「言語ゲーム」論を、さてどう読めばいいのか。

「言語ゲーム」を(私の理解した範囲で、つまりこれまた相当に軽薄に)語るならこうなる。私は言葉の中にがんじがらめにされて生きている。こうして言葉を書き、言葉によって考察して概念を組み立てる。その言葉は言うまでもないが「私的言語」ではない。私がオリジナルに組み立てた言葉ではなく、日本語というすでに多くのユーザーを保持している言語によってである。したがって「言語」が織り成す概念を、時に深く考えないまま「言語」によって理解するという、なんだかややこしい手続きのことを「言語ゲーム」と呼ぶ。

時に私たちは「言語」を裏切ることを平気で行う。というか、「言語」が示す通りに生きている人などいない。「これ、適当に並べといて」という曖昧な言葉の前に何度もフリーズした経験のある私などは、こうした厳密さを欠いた「言語」でさえも通じさせる「言語ゲーム」の恐ろしさに戦慄を禁じえない。橋爪の例示には登場しないが、「言語ゲーム」はある意味OSみたいなある種の体系なのだろうと思う。体系の中でこそ「フリーズ」や「立ち上がる」といった言葉はそれぞれの適切な意味を持つ。ゆえに体系から外れてしまうとその言葉の意味がわからなくなる。

さて、今はポスト・トランプ時代にしてポスト(?)コロナ時代。人々は文字通りそれぞれのソーシャルメディアの、特にフォローしている人たちが生み出す親密な「言語ゲーム」「体系」の中に絡め取られている。私でさえも例外ではない。そんな中において、私たちが常識/不文律として共有していると信じている「言語ゲーム」「体系」が、実は脱出不可能な幻想なのかもしれないということを思考の種として考えるためにも、一度はこの(敢えて)軽薄に書かれたウィトゲンシュタイン入門を手に取ることを薦めたい。

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