2022/07/14
ドン・デリーロという作家のことが気になっている。実を言うとアメリカ文学について大学で学んでいながら、この作家の書いたものをほとんど読まないまま今まで来てしまった(私の読書とはそういう不徹底なものなので、トマス・ピンチョンもリチャード・パワーズもまったく読めていない)。片岡義男『日本語の外へ』の中でデリーロの『リブラ 時の秤』について触れられているので読んでみたいと思い、図書館で借りて読んでみることにする。こうして私の世界は少しずつ広がっていく。いつだって地道に一冊ずつ本を読むことから始まるのだった。
片岡義男『日本語の外へ』を読み、日本語の特色について考えた。片岡の議論から学んだのは日本語には「客観」がないというもので、「私はこう思う」という意見がぶつかり合うことがコミュニケーションになるというものだ。なかなか難しいが、Twitterの議論(と称されるもの)を見ればそれはわかる気もする。どこまでも「私はこう思う」という立場がぶつかり、そこに合意が見られない。折衝の結果「客観」に至らない……それが片岡が言う、日本ではなかなか「公共性」が成り立たないという現象につながるのだろう。なかなか難しい問題だ。
昨日、夢がなくなってしまった、と書いたことで少なからずFacebookやDiscordの友だちを心配させてしまった。いや、やりたいことがなくなったわけではないのだ。ドン・デリーロの本だって読みたいし、英語だってまだまだ学びたい。もっと言えば一生読み続け学び続けたい。ただ、私が言いたいのはそういう地道な欲求を離れて生きたくないということなのだった。大きな夢を見るより、「今」を着実に生きてそれを未来につなげたい、と……何だか抽象的な話になってしまった。「今」確実に、この平凡な暮らしが楽しいと思っている。それを続けたいなと思ったのだった。
夜、オンラインミーティングに参加する。そこでclubhouseのことを話す。私はアンドロイドを使っているので最初はclubhouseについて興味がなかったのだが、とある方の薦めで使い始めてそれでジュディスさんに会って、人間関係が広がったのだった……ああ、人生とは不思議なものだ。ミーティングではclubhouseの話から喫茶店などの公の場でのコミュニケーションについて話は広がり、楽しいひと時となった。思えばこうしてミーティングに出るようになったのもいろんな方との交流があってこそ。私もずいぶん社交的になったものだ、と思う。ひと昔前なら確実に孤独な読書で時間を潰していただろう……。
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