2024/01/19 BGM: Opus III - I Talk To The Wind
今日も今日とて、ぼくは図書館に行ってそこで2冊本を借りた。谷崎潤一郎が記した恋文(ラブレター)を集成した『谷崎潤一郎の恋文』という本と、あとはふと見つけた哲学書の小林康夫『存在とは何か』という本だ。その後、イオンに行ってそれらを読んでみようとした。こうした本を眺めていると、ぼくがいったい何に関心を持っているかわかってくる。いや、これはあまりにも思慮に欠けた物言いになるけれど、でもたぶんぼくはいま「女性とは謎だ」とか「世界とは神秘そのものだ」と考えているのかなと思えてきた。
Discordでぼくはこんな質問を見かけた。いわく、「どうして哲学を学ぶのですか」という……これは興味深い質問だ。ゆえにぼくもあたうる限り正直かつ真面目に考え込んでしまった。ぼくにとっては、こうした哲学的な問いかけ・考察は単に「止まらない」。そして、それは「避けられない」「不可避な」ものでもある。理由はわからないから説明のしようもない。だけど、たぶんこれはどこかステキなところから訪れるもの・飛び込んでくるものなのだ(フロイト言うところの「無意識」、あるいは「神のお告げ」、などなど)。
イオンでそんな感じで携帯していた本を読もうとしたのだけれど、何も読めなかった。たぶん疲労からだろう。なのであきらめて、いつものように英語でメモパッドにメモを書くことにした(そう、日本人なのにぼくは主に英語でメモを書く。どうして英語なんか使うのかはわからないけれど、それでもこのメモパッドはコロナ禍の時期から続いているのだった)。
そうして読んだり落書きしたりした時間を終え、仕事に入った。仕事中、ぼくはこんな考えに浸った(どうしてこんなアホなアイデアを思いついてしまったのかもぼくにはわからない)。こんな考えだ――ついに、ぼくは大いなる・すごい考えに至ったと思った。人生に意味はなく空っぽで虚しい、という。でも、それがほんとうかどうかはさておき、それにしたってここまで書いてきたようにぼくは自分の道を歩み哲学を我流で学ぶことを止めることはないだろうな、ということだ。だからそれは意味があるかどうかとか、立派な人間になれるかという問題とは違うようだ。やりたいからやる。それだけのこと……みたいだ。
そう、ぼくはたぶん何も結晶として仕事・勉強の成果を残すことはないだろうなと思う。逆立ちしたって『構造と力』『存在論的、郵便的』にはかなわない。でも、それでもウィトゲンシュタインを読むことはやめられず、こんな日記を書いたりメモを書いたりすることも止められない。「きみは言うんだろうな、ぼくは夢想家だって」というのはジョン・レノンの有名な詩の一節だが、それに倣って言えばぼくだって立派な夢想家だ。外から見ればぼくはただの1人の従業員にすぎない。特別なところなんて何もない。でも、それに満足を感じられるようになった。その「満足感」「満腹感」が幸せの手がかりなのかなと思う。
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