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2023/10/04 BGM: Julia Fordham - Invisible War

実を言うと、今日・明日と休みである。なので実家に戻ることにした。といっても、隣町にある実家なので帰省なんて大げさなものでもないのだけど、お盆も過ぎ秋めいてきて季節外れの親孝行(?)ということに相成ってしまった。朝、ZOOMを立ち上げて英会話関係のサロンのオンラインミーティングに参加する。そこで英語でいろいろ参加者の方々が例文を作って楽しむというレッスンに興じる。ジャニーズ事務所が新しく命名した事務所名「Smile Up」について、あるいはぼくがかれこれ現時点で8年間続けられている断酒について話が及ぶ。ぼくが勤めている会社ではそろそろ秋の風物詩であるボジョレー・ヌーヴォーをめぐって「お酒は呑めないです。人生半分損してると思います」なんて会話が繰り広げられている。ぼくも(ぼくはグルメなんかではありえないのに)料理の味を堪能しようとワインを呑んで「うん、フルーティーだ」なんて言っていた恥ずかしい過去を思い出す。ちなみにアルコール依存症で断酒している人は甘酒も飲まないし、厳しい人はみりんも(匂いが酒を連想させるので)料理に使わないという徹底ぶりを見せる。ノンアルコールの飲料も飲まない(これも「モノホン」を連想させてしまうからだ)。ここまでして断酒を続けるその意義についてはまた別の機会に書けたらと思う。さみしい人生かもしれないが、味わい深いものでもある。

昼、実家に戻る。そして両親と栗ごはんを食べた。グループホームでの生活やジョブコーチを交えたぼくの仕事、あるいは英語を学び続けるぼくの私生活についてなど話が及ぶ。この実家にいた頃……どうやったらこの家を出て「自立」できるのかと気ばかり焦っていたのを思い出した。だから一時期、それこそ酒に溺れていた頃はこの家もこの家を建てた両親についてもぜんぜんいい思いを抱いていなかったのだった。火をつけてやろうか、なんてアホなことを考えた……その頃つき合っていた友だちからも「そんな家出ていけ」と言われたり。そんなこんなで悩んでいた頃にこの町にある「高次脳機能障害」のための古民家カフェの電話番号を見つけて、勇気を出して電話をかけてみた。電話に出た代表者の方がぼくの発達障害の話を聞いて「いや、残念だけどうちはそういう施設じゃないんだけど……」とおっしゃって、そこであきらめて……でもその後すぐに折り返し「もしもし? さっきの人?」と電話がかかってきた。そこから少しずついまの生活への足がかりが得られて、自分なりに(そんなウハウハな人生なんてまったく歩んでいないのだけれど)洗濯したりあれこれ身繕いしたりする暮らしへ移っていき、グループホーム暮らしを始められたのだった。それがいま、これを書いている時点でのこの暮らしである。

その後、グーグー思いっきり昼寝をしたあとに阿部朋美・伊藤和行『ギフテッドの光と影』を読んだ。そうしていると午前中にお世話になったサロンの主宰者の方が日本で増えている不登校についてFacebookに投稿しておられた。それを読んでタイムリーだったので自分の意見をコメントとして書き込んだ。『ギフテッドの光と影』では知能が高すぎて学校の教育になじめず、それゆえに「落ちこぼれ」「はみ出しもの」と化してしまうギフテッドの人びとの苦悩と再生が語られている。もちろん、学校教育からはみ出してしまう人が全員ギフテッドであるわけではない。だが、「学校教育になじむ・なじまない」だけが「絶対的で単一の」判断基準になるのはおかしいと思う。ぼくは子どもを育てたこともなく、子どもに何か教えたこともないのでこの件については完全な「机上の空論」しか書けない。でも、大事なのはそうした「学校教育」にとらわれない「もう1つの」あるいは「多様な」基準で子どもたちを判断することだと思う。でも、だからといってぼくは「学校教育はくだらない」「学校なんて行くな」とも思いたくない。それもまた極論に過ぎる。学校は基礎教養を体得し、集団で何かを成し遂げる達成感を身につける場としていまだに大事だろう。これについても掘り下げていくと実に深い話になると思った。

夜、ふと実家のぼくの部屋の本棚に中島義道『たまたま地上にぼくは生まれた』があるのに気づいて、懐かしく思うに過去、ぼくはこの「戦う哲学者」中島義道にずいぶんあこがれた。まさしくこの実家にいて、でも両親との仲もギスギスしていて私生活では独りぼっちで酒に溺れてばかりだった頃に酔いの回った頭で辛うじて中島義道を読み、「そうか、自分のこの生きづらさは『哲学』によって救われるのだ」と思ったりもしたのだった。いまになって、それこそ両親と仲を築き直してから読む彼の主張にはなかなか味わい深いものがある。ぼくは中島義道とは違う。彼の「両親を(精神的に)見捨てろ」という意見や「人生は本質的に不幸だ」という意見には「なぜですか」と異論をはさみたくなる。ぼくはついに中島義道ほど思考を徹底できない。その意味で哲学的なセンスに恵まれていないことを自覚し、それゆえに幾分か彼に対するヒガミさえ感じることを認める。だが、それを踏まえた上で「でも、ぼくはぼくの信じる道を歩む」「ぼくはぼくがこの仕事や私生活で体得し、血肉化させてきた『哲学』『生き方』に殉じる」と言うだろう。でももちろん、これは中島義道の哲学を全否定するわけではない。これからもぼくは折に触れて(前ほど頻繁にではないだろうにせよ)彼の本から学ぼうとすると思う。そして、そんなぼくと彼、あるいはぼくとさまざまな方との「きしみ」「ぶつかり合い」から生まれる「対話」を大事にしたいとも思った。

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