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Praxis 2022/02/28

池田晶子『リマーク』を読む。1997年から2007年にかけて書かれた著者の哲学的アイデアの断片をまとめたものだ。実に詩的というか、ひとつのアイデアからうねうねと息の長い考察を続けていくスタイルではなく、そのアイデアが湧いた瞬間をスナップショットで捉えた断言/言い切りのスタイルを採っている。故に、読んでいて必ずしも説得的に議論が展開されているとは限らず、端的に意味不明なところもある。だが、ウィトゲンシュタイン顔負けのこの寸鉄人を刺す表現は最果タヒの詩にも似たセンチメンタリズムが漂い、こちらをして読ませる。

著者の関心は自分がなぜ自分なのか、自分が生きている/死んでいないとはどういうことなのか、という次元から始められる。そしてそれは広大な宇宙を舞台にした考察へとつなげられる。というか、その中間層にあるべき他者の存在の謎への問いかけがさほど見られない。自分という謎に自分で驚き、それを自分に向けて書いている。だが、問題はその「自分という謎」がどうして池田晶子ではない私も共有できる問題設定なのか、ということではないかと思った。そのあたり、決して他人が見えていない著者ではないと思うので(だからこそ世相をあれほど斬ることができたのだ)どう捉えていたのか、興味が尽きない。

私。さしあたって生きており、死んでいない私……私はそれを当然のこととして考えている。所与のものとして、あるいは前提条件として、だ。こうして言葉を繰ることができるということも、しかし改めて考え直してみれば不思議である。そこで躓いてしまうのが私が大好きなウィトゲンシュタインだったのだが、池田晶子もまたその謎で立ち止まっている。その謎を、しかし闇雲に解決/解明すべきものとして相手に据えて戦うのではなく、むしろその謎そのものを「カワイイ」と面白がっているような池田晶子の姿が見えてくる。そのファニーな姿勢はしかし、侮ってはならないだろう。

ここから新しい思想が生まれるという本ではない。乱雑に整理してしまえば池田晶子が提示するアイデアは、いざ言葉にして議論に乗せてしまえばその新鮮味を失う類のものだろうと思う。つまりこれは池田晶子の夢日記のような書物ではないかと思った。夢日記であるがゆえに、私たちは池田同様夢魔にたぶらかされることを楽しめばいいのである。そして、私たちも自分の夢日記を書く権利を与えられてもいよう。夢を生み出すのは私の潜在意識/無意識という私の中の他者性の権化である。私の中にこそ他者が居る……そのありふれた事実そのものが謎であることを池田は見抜いていたのかもしれない。

リマーク


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