2024/04/27 BGM: The Beatles - All You Need Is Love
最近、ある友だちがXにいにしえの名曲「ウィ・アー・ザ・ワールド」について投稿しているのを読んだ。子どもの頃、ぼくは意味なんてろくすっぽわからずしたがってどんなに豪華な曲なのかもわかっていないまま、浴びるように聞いてすごしたことを思い出す。いま、もちろんぼくなりにこの曲には違和感を持ってしまいしたがって少しばかり(「少しばかり」だが)異論を述べたくもあれど、それでもこの曲を愛する気持ちはある。今日もお昼に、この曲のほんとうのメッセージはなんなんだろうと考え込んでしまった。
「ウィ・アー・ザ・ワールド」とは、不自然なのを承知であえて字面通りに訳せば「ぼくたちは世界だ」となる。「ぼくたちは」というからにはそこには基本的に少なくとも2人は人間がいる、ということになるはずだ。このぼくと、そしてぼくとは違う存在としての誰か(仮にクローンだとしても、それでも異なった身体や精神を持っているということには変わりはあるまい)。そこには「違い」「ギャップ」があり、その相違こそがコミュニケーションの機会を生み出し相互理解への道を開く。そこから相互理解に至ることもあればズレを確認して終わってしまうこともある。
でも、そこにたしかにズレがあろうとぼくたちは絆を形成したしかな信心に基づいてつながり合うことができる。神様はたしかにいる、とかあるいはそれに比肩する高次な存在がいる、とか。あるいはラブだとかピースだとかいった美しい概念によってつながることだってあるだろう。そんな共通の(「コモン」な)理想をとおして、恋人になったり友だちになったりして関係を築き上げることができるはずだ。まず崇高な概念ありき。それこそが「ウィ・アー・ザ・ワールド」というスローガンの重要性なのかな、と思ったりした。
ふと、ここまで考えてぼくが所属している身内だけのLINEグループに別の畏友の方がこんなことを投稿しているのを思いだした。「巨大な、自分を超えた存在によって支えられて私たちはこの世に屹立していられるということを自覚しないといけませんね」(概要としてはこんな内容だったと思うが、正確な引用ではない)。過去、神もへったくれもあったもんじゃない(いるんだったらなんでこんなにつらい目に遭わないといけないっていうんだ)と思っていたころならこの意見の深さもわからず、妄言だと斬って捨てていたはずだ。でもいま、ある意味ではラブ&ピースという概念もイデオロギーというか病的な妄想なのかなとまで思ってしまうこともあるが、だとしてもそうした概念に殉じてこの世界とぼくの人生をよりよくさせたいとも思う。
夜になり、たまたまネットで見かけて興味を惹かれ手に取ったマーク・キングウェル『退屈とポスト・トゥルース』を読んで過ごす。精緻な議論が展開されているがゆえに難易度も高く、抽象度も高い1冊でなかなか読むのに骨が折れたが、それでも実に挑発的でアクチュアルな主張が書かれていると舌を巻く。本書に倣ってぼくも、自分がインターネットに依存する心理を持ち合わせていることを認めないと始まらない。スマートフォンのない生などぼくには考えられない。スマホあってこそ、ぼくは退屈をしのいでなおかつ物事を深く考えず「なあなあ」というか「だいたい」というか、そんな感じで生きていける。まずはこんな実態と虚心に向き合い、依存と向き合うことが肝要だと思ったりした。
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