見出し画像

小説「シーラカンスと暮らす女」

そのビルの住人は全員が引っ越しを選んでいた。ただひとりの女を除いて。
女は落ち着いた様子で、引っ越しはしないと部屋を訪ねてきた管理会社の男にいった。

ビルの内外には急成長したツタがびっしりと巻き付いていた。数日以内に完全にジャングル化するのは間違いなかった。そうなったら危険な動物も増え、人が住める環境ではなくなる。

管理会社の男は、ビルにとどまる人がいたら「自己の責任でとどまる」という誓約書にサインをもらうことになっていた。

男はサインをもらうかわりに、事情を聞いてみることにした。
人を待っているからだと女は答えた。互いの連絡先を知らないのでこの部屋で待つしかない、ここを引っ越したら会えなくなるという。

それなら引越し先を伝えるサービスを利用してはどうでしょう、その人があなたを探そうと思えば探せるはずですと伝えた。
女の反応はあいまいだった。


どのくらい待っているのかと聞くと1年という答えだった。
待っててももう会えないのではないか、これ以上待つのは無駄ではないかと男は思った。でもそういうかわりに、男は誓約書へのサインをもらわず、また来ますと伝えてその部屋から去った。
なんだか影のある女性だと思った。

翌日もその翌日も男は女の部屋を訪問した。
5日目、女の態度が変化した。
実は……、とためらってから、人を待っているというのは嘘で、シーラカンスと暮らしてる、彼が引っ越しを嫌がっている、相談するだけで怒るという。

画像1

それなら問題ないです、そのシーラカンスを引っ越し先に連れていきましょう、と男は答えた。怒るかもしれないけど、なにもできなんだからと。
女はとんでもないというふうに首を横に振った。シーラカンスを怒らせたくないらしい。

男はシーラカンスから直接話しを聞きたいといった。女ははじめ嫌がっていたものの根負けし、本人に聞いみるといってバスルームに行った。数分してから戻ってきた。少しなら大丈夫だということだった。

水をはったバスタブにシーラカンスがいた。床に酒瓶が転がり、競馬新聞が散乱し、タバコの吸い殻が水面に浮かんでいた。

男はシーラカンスの言葉がわからないので女が通訳した。
必ず自分が彼女を守る、心配いらないといってるということだった。


バスルームを出た後、男は女にきいた。ほんとはなんていってたんですか、あなたに対してどなり散らしてましたよね、と。
女はその質問には答えず、彼は私がいないと生きていけない、あんなだけどほんとは優しいんですといった。

そんな言葉は信じられない。ふとあることを思いつき、誓約書にはサインの他に顔写真も必要だといって、女に制止するタイミングをあたえずシーラカンスの写真を撮った。

男が去ってから数時間後、5人の警官が女の部屋を訪ねてきてた。警官たちがシーラカンスを逮捕しようとするとするとシーラカンスが猛烈に暴れ、警官3人が負傷した。シーラカンスはイルカに対する連続暴行の容疑で指名手配されていた。
警官たちがシーラカンスを連れ去ったあと、女はその場に立ち尽くした。

夕方、男は女の部屋を訪ねた。鍵はかかっていなかった。女はバスルームの床を掃除していた。必要ありません、もう誰も住みませんから、と男がいっても女は床を磨き続けた。

男は荷造りを手伝い、女を引越し先の安全なビルまで送ってやった。女は一言もしゃべらなかった。


男は女が自分を憎んでいるのがわかった。幸せをこわされたと感じてるんだから、嫌われてもしょうがないなと思った。警察にシーラカンスの写真を見せたのは男だった。おせっかいだとは認めつつも後悔はしていなかった。

数日後、男は街でばったり女と再会した。
女の方から声をかけてきた。思いつめた様子はなくなり、見違えるほど明るい表情をしていた。きっと本来の姿なんだろうなと思った。

元気そうですねというと、女は答えた。いろいろありがとう、お礼をいいたくて、あのシーラカンスのことは忘れました、今いっしょに暮らしてるシーラカンスはほんとに優しいんです。

それはよかった、と男はいった。聞きたいことはあったけど、あたりさわりのないことをいって男は去った。

いいなと思ったら応援しよう!

ケンコウ
お読みいただきありがとうございます。私のnoteはすべて無料です。noteアカウントがなくても「スキ」ボタンをポチッとなできます。よろしくです。